第55話 だれ
俺が図書館に着いたのは、夜の十一時だった。
ヰナは、通用口の前で待っていた。
「――早いです」
「走った」
「四キロあります」
「走った」
俺は、息を整えた。
「入るぞ」
「はい」
◇
地下五階の閲覧室に、その紙はあった。
机の上。
俺が置いた記録票の束の、一番上。
白紙の記録票の、端に。
鉛筆で、小さく。
――『だれ?』
◇
字は、下手だった。
というより、書き慣れていない字だった。線が震えていて、「だ」の点の位置がおかしい。
俺は、その紙を、しばらく見ていた。
「――子供だな」
「はい」
「小学生くらいか」
「――そう思います」
ヰナが、机の脇に立った。
「灰島さん。持っていかれた一枚は、これです」
彼女は、リストを出した。
『二十七番 滝沢イサム(十四) 野球部』
――俺が、一番最初に書いたやつだ。
◇
「……なんで、これを」
「わかりません」
「一番上に置いてあったわけじゃないよな」
「二十七番目です。束の、真ん中あたりです」
俺は、机を見た。
――束が、乱れていた。
几帳面に揃えて置いたはずが、端がずれている。
誰かが、全部めくったのだ。
四十七枚、一枚ずつ。
そして、二十七枚目だけを、持っていった。
「……野球が、好きなのかもな」
俺は、そう言った。
◇
俺は、椅子に座った。
七位が座っていた、背表紙の椅子。
座ってみると、意外と、座り心地が悪かった。
「――ヰナ」
「はい」
「今日から、ここに泊まる」
「――は?」
「泊まる」
「いけません」
「なんでだよ」
「規則です」
「規則!?」
「灯守の施設に、無許可で宿泊するのは」
「――ヰナ」
俺は、彼女を見た。
「三年前、俺が誰かに見つけてほしかった時」
俺は、言った。
「見つけてくれる奴が、そこで待っててくれてたら、どんなによかったか」
◇
ヰナは、口を閉じた。
しばらく、動かなかった。
それから、彼女は、鞄を床に置いた。
「――申請書を書きます」
「は?」
「『施設保全のための泊まり込み調査』です」
彼女は、ペンを出した。
「様式に則れば、通ります」
「――あんた、ほんと」
「様式は、使うものです」
彼女は、真顔で言った。
「使われるものではありません」
◇
その夜から、俺は図書館に泊まった。
寝袋を持ち込んで、地下五階の隅に敷いた。
一晩目は、何も起きなかった。
二晩目も。
三晩目も。
四晩目の夜中、俺は、物音で目が覚めた。
◇
――ぱさり。
ページを、めくる音だった。
俺は、寝袋の中で、目だけを開けた。
閲覧室の中央。
机の前に、影があった。
小さい。
――子供だ。
背丈は、俺の腰くらい。
その子は、机の上の記録票を、一枚ずつ、めくっていた。
◇
俺は、動かなかった。
――動いたら、逃げる。
三年前の俺なら、絶対に逃げた。
誰かに見つかりそうになるたび、俺は逃げた。逃げてから、なんで逃げたんだろうと、毎回思った。
――見つけてほしいのに、見つかるのが怖い。
あの感じを、俺は知っている。
だから、俺は、寝袋の中から、静かに言った。
「――野球、好きか」
◇
影が、跳ねた。
振り返った。
顔は、暗くて見えなかった。
でも、目だけが、こっちを見ていた。
「――逃げなくていい」
俺は、寝袋から出ずに、そのまま言った。
「俺、灰島トワっていう」
俺は、続けた。
「三年前に、あんたと同じになった」
影は、動かなかった。
「二年八か月、誰にも見つけてもらえなかった」
俺は、天井を見た。
万を超える背表紙が、暗闇の中で、静かに並んでいた。
「――でも、見つけてもらえた」
◇
長い、沈黙があった。
どのくらいだったか、わからない。
やがて、小さな声がした。
掠れていて、ひどく、聞き取りにくい声だった。
「……ぼく」
俺は、息を止めた。
「ぼく、なまえ」
その子は、言った。
「――なまえ、わすれちゃった」




