第53話 誰でも読める場所
九条シキは、三日、返事をしなかった。
四日目の朝、支部長室に呼ばれた。
机の上に、地図が広げてあった。
「――市立中央図書館」
彼女は、そこを指した。
「先月、君が七位を斃した場所だ」
「はい」
「あそこの地下五階は、まだ残っている」
俺は、顔を上げた。
「本は?」
「全部ある。……七位が百二十年、集めたものが、そのままだ」
彼女は、地図を畳んだ。
「うち、持ち主が特定できるものを、君は既に返した。……残っているのは、持ち主のわからないものだ」
「何冊」
「――数えていない」
彼女は、正直に言った。
「壁一面だ。天井もだ。……たぶん、万を超える」
◇
「本部に上申した」
彼女は、書類を出した。
『市立中央図書館地下施設の保全および閲覧に関する申請 第七支部』
「あそこを、灯守の準公開施設にする」
「準公開?」
「灯守職員以外も、入れる場所にする」
彼女は、俺を見た。
「――ただし、条件がある」
「なんですか」
「入れるのは、**存在値が低い人間だけ**だ」
俺は、息を呑んだ。
「あの建物は、七位が空間を膨らませていた。膨らんだ空間は、まだ残っている。……そして、あそこは」
彼女は、地図の一点を叩いた。
「――存在値が低いほど、入りやすい」
◇
「――どういうことですか」
「君が地下五階に降りた時、階段があったな」
「はい」
「あれは、白羽には見えていない」
俺は、ヰナを見た。
彼女は、頷いた。
「私には、地下一階までしか、見えませんでした」
「――え?」
「灰島さんが『下がある』と言うので、ついていきました」
彼女は、あっさり言った。
「私は、あなたの後ろを歩いていただけです」
俺は、その時のことを思い出した。
――そういえば、こいつは、一度も先に立たなかった。
「存在値の高い人間は、あの階段が見えない」
九条支部長は、続けた。
「見えないから、降りられない。……逆に言えば」
彼女は、俺を見た。
「――消えかけている人間だけが、あそこに辿り着ける」
◇
俺は、その意味を、飲み込むのに時間がかかった。
「……つまり」
「そうだ」
支部長は、頷いた。
「存在値ゼロの人間が、あそこには入れる」
彼女は、机の上の書類を、俺のほうへ押した。
「君の書いた記録票を、あそこに置く」
「――誰でも読める場所」
「君の言った通りだ」
彼女は、少しだけ、笑った。
「――ただし、『誰でも』ではない。**消えかけている人間だけ**が読める場所だ」
◇
「――でも、それだと」
俺は、言った。
「あそこに辿り着ける人は、たぶん、もう」
「そうだな」
支部長は、頷いた。
「そこまで消えかけている人間は、たいてい、手遅れだ」
彼女は、椅子にもたれた。
「――だが、君は生きている」
俺は、顔を上げた。
「二年八か月、誰にも見つけてもらえなかった君が、生きて、そこに立っている」
彼女は、俺を見た。
「――なら、二人目もいる」
◇
その週、俺たちは図書館に戻った。
地下五階の閲覧室。
七位の座っていた椅子は、まだそこにあった。背表紙でできた椅子。誰も座っていない。
俺は、その隣に、机を一つ運び込んだ。
そして、書いた記録票を、その上に置いた。
四十七件。
一番上に、俺は、一枚の紙を置いた。
手書きだった。
◇
『ここを読んでるやつへ』
俺は、そう書いた。
『あんたは、たぶん、誰にも見つけてもらえてない』
『俺もそうだった。二年八か月、一人も気づかなかった』
『下に、四十七人分の記録がある。全員、あんたと同じ目に遭った人だ。ほとんどは、還ってこなかった』
『でも、俺は還った』
『だから、あんたも還れる』
ペンを止めて、俺は、少し考えた。
それから、最後に、こう書いた。
『――灯守第七支部 灰島トワ』
『存在値ゼロから、八・〇まで戻った』
『会いに来い。俺が、あんたの名前を覚える』
◇
「――灰島さん」
ヰナが、その紙を読んで、言った。
「これは、様式外です」
「知ってる」
「――ですが」
彼女は、その紙を、そっと机に戻した。
「――これが、一番、届くと思います」
◇
俺は、地下五階を出る前に、もう一度、振り返った。
壁一面の、背表紙。天井まで、びっしりと。
万を超える、落とされた記憶。
――誰かが、いつか、ここに来る。
俺は、階段を上がった。
その日から、俺は毎週、ここに通うようになった。
書いた記録票を、一枚ずつ、増やしに。




