第51話 この字は
俺は、その紙を差し出した。
補完記録票、様式第七号。
『氏名:二宮タカシ』
『年齢:十六』
『消失日:平成元年七月三日』
その下の、大きな欄に。
『生きていた記録』
――俺の字で、こう書いてあった。
『弟が生まれた日に、病院の廊下で泣いていた。理由を聞かれて「うれしいから」と答えた。中学で美術部。デッサンが下手で、色だけ褒められた。将来は看板屋になりたいと言っていた。弟に「タカシにいちゃん」と呼ばせようとして、「にいちゃん」としか言ってもらえなかった』
◇
二宮ケイタの母親は、その紙を、両手で持っていた。
玄関先で、十分、立ったまま。
読んで、また最初から読んで、また読んで。
「……この字」
彼女は、そう言った。
「はい」
「あなたが、書いたの?」
「はい」
「――なんで」
彼女は、顔を上げた。
目が、真っ赤だった。
「なんで、あなたが、知ってるの」
俺は、答えを用意していなかった。
三十七年前の話だ。俺は生まれてもいない。
「……お母さんが、覚えてたんです」
俺は、そう言った。
「――え?」
「あなたのお母さんが、ずっと覚えてました」
俺は、言った。
嘘ではない。
七位が拾った記憶は、たぶん、この人の母親のものだ。四十年近く、忘れられずにいて、そして、いつか落ちた。
「その記憶が、いろいろあって、俺のところに来ました」
――説明として、最悪だった。
我ながら、意味がわからない。
でも、彼女は。
「……そう」
彼女は、頷いた。
「――そうなの」
◇
「うち、母が、三年前に亡くなったんです」
彼女は、紙を胸に抱えて、そう言った。
「最後の一年、認知症で。……いろんなことを、忘れていって」
彼女は、目を伏せた。
「一度だけ、母が、変なことを言ったんです」
「……なんて」
「『タカシは、まだ帰ってこないの』って」
彼女の声が、震えた。
「わたし、誰それって聞きました。母は、『あんたのお兄ちゃんじゃない』って怒って。……でも、次の日には、その話をしなくなって」
彼女は、紙を見た。
「わたし、認知症のせいだと思ってた」
◇
俺は、何も言えなかった。
――違う。
あの人は、正気だった。
三十七年、この人だけが、覚えていた。
周りの全員が忘れて、記録も消えて、それでも、母親だけが、息子を覚えていた。
――そして、最後に、落とした。
「……あの」
俺は、口を開いた。
「その紙、受け取ってもらえますか」
彼女は、俺を見た。
「――当たり前でしょう」
彼女は、そう言って、深く、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「――いえ」
「わたし、兄がいたのね」
彼女は、涙を拭った。
「……三十七年、知らなかった」
◇
帰り道は、無言だった。
商店街のイルミネーションが、点き始めていた。
「――灰島さん」
「なんだ」
「一件、受け取られましたね」
「――ああ」
俺は、鞄を持ち直した。
「七軒回って、一件だ」
「一件です」
「効率、悪いな」
「悪いです」
ヰナは、あっさり頷いた。
「ですが」
彼女は、俺の隣に並んだ。
「――三十九年分あります」
俺は、笑った。
「気が遠くなる」
「はい」
「――でも、やる」
「はい」
◇
その夜、俺はノートを開いた。
七冊目。もう、残り数ページだった。
俺は、今日の分を書いた。
『十二月九日 七軒回って、一件受け取られた』
書いてから、俺は、ヰナの真似で、もう一行足した。
『――灰島トワは、二宮タカシを、妹に届けた』
書いてから、ペンを止めた。
――違うな。
俺は、その行を、二重線で消した。
そして、書き直した。
『――二宮タカシの母親が、三十七年、覚えていた』
俺がやったのは、届けただけだ。
覚えていたのは、あの人だ。




