第5話 いただきます
齧りついた瞬間、世界から音が消えた。
影は氷のように冷たくて、なのに喉を落ちていくそばから、熱に変わった。
噛む、という感覚とも違う。俺の中の空っぽが、掃除機みたいにそいつを吸い込んでいく。影の巨体が見る見るしぼんで、黒い霧になって、俺の口の中へ、胸の奥へ、流れ込んでくる。
熱い。
冷たいのに、熱い。
空きっ腹に熱い汁物を流し込んだ時の、あの内側から染みる熱さが、全身に広がっていく。指の先まで。髪の先まで。ずっと薄ら寒かった体の芯に、火が入る。
――力だ。
これは、力だ。
そして最後のひと呑みと一緒に、「それ」は流れ込んできた。
◇
知らないアパートの、知らない部屋。
窓際に観葉植物。名前は確か、ええと、パキラ。枯らしかけて、慌てて日向に移して。
金曜の夜だけ、コンビニでちょっと高いプリンを買う。頑張った週の自分へのご褒美。
スマホの向こうで母親が笑ってる。『あんた、ちゃんと食べてるの』。食べてるって。『今度いつ帰るの』。……年末には。年末には、帰るね。
――帰れなかった。
彼女は三日前の夜、コンビニ帰りの路地で、この影に喰われた。
誰にも気づかれず。田舎の母親の記憶からも消えて。会社のデスクは詰められて。パキラだけが、誰のものでもない部屋で枯れていく。
◇
「……っ、は……」
気がつくと、俺は遊歩道に膝をついていた。
影は、もうどこにもいない。俺が、全部喰った。
喰った化け物の中に、喰われた人が残ってた。名前は流れてこなかった。でも、その人が何を好きで、何を頑張って、誰に会いたかったかを、俺は今、全部知っている。
……あんたのことは、誰も覚えてない。
この世界の誰一人、あんたがいたことを知らない。
「……俺が、覚えてる」
声に出していた。
「あんたがいたこと、俺が覚えててやる。だから――」
だから、安らかに、なんて言えるほど、俺は強くなかった。代わりに腹の底から出てきたのは、もっと単純で、もっと凶暴な言葉だった。
もう一匹も喰わせない。
全部、俺が喰い返す。
◇
立ち上がると、体が軽かった。
軽いだけじゃない。夜目が利く。遠くの水音が聞こえる。足元の自分の影が、なんだか、従順な犬みたいにこっちを見ている気がする。……気のせいか?
俺は財布から学生証を出した。白紙になった、俺の在籍証明。
街灯にかざして――息が、止まった。
滲みがある。
白紙のカードの、名前の欄のあたりに、ほんのうっすら、インクの影みたいな滲みが浮かんでいた。昨日まで、こんなものはなかった。何度も確かめたから断言できる。
喰ったからか?
あいつを喰って、あいつが奪った「存在」を取り込んだから、俺の存在が、ほんの一滴だけ――戻った?
心臓がうるさかった。ぬか喜びかもしれない。ただの汚れかもしれない。でも、もしそうじゃなかったら。もし、喰った分だけ戻るんだとしたら、俺は。
俺は、帰れるかもしれない。
――その時だった。
視線を感じた。
この数日、誰の視界にも引っかからなかった俺が、忘れるはずもない感覚。「見られている」。
振り向く。
遊歩道の入口、街灯の輪のふちに、少女が立っていた。
同い年くらい。見たことのない制服。手には、銀色に光る杭のような得物。
そして、その両目は――俺の目を、まっすぐに見ていた。
通り過ぎない。滑らない。逸れない。
俺を、見ている。




