第4話 誰も助けられないなら
土手を駆け下りながら、俺は前を歩く背中の正体に気づいた。
慎吾だ。
田代慎吾。カラオケを三回流した相手。今朝、俺に「どちらさん?」と言った友達。塾帰りなんだろう、イヤホンをして、スマホを見ながらのんびり歩いている。
その五メートル後ろを、影が滑っていく。
「慎吾! 走れ!」
叫んだ。慎吾がイヤホンを外して振り向く。
「……は? 誰?」
慎吾の視線は俺を通り越して、俺の後ろの暗がりを見て、また俺に戻った。
視えていない。
あんなにでかい影が、口が、もう三メートル後ろまで来てるのに、あいつには何も視えていない。
「後ろだ! いいから走れって!」
「え、こわ。……なんすか、あんた」
慎吾が後ずさる。警戒する相手を、間違えて。
夜道で知らない男に叫ばれたら、そりゃそうなるよな。俺だってそうする。でもな、慎吾。お前が今怖がるべきなのは、俺じゃないんだよ。
影の口が、縦に裂けた。
あの夜、俺を丸ごと呑み込んだのと同じ形に。
――間に合え。
俺は地面を蹴って、慎吾と影の間に割り込んだ。氷みたいな冷気が顔に当たる。開いた口の奥は、色というものが存在しない、ただの「無」だった。
両手を突っ込んで、顎を掴んだ。
冷たさが肘まで噛みついてくる。構うか。俺はそのまま全体重をかけて、影の頭を地面へ捻じ伏せた。
化け物が、初めて抵抗した。
といっても、暴れ方は「振り払おう」とするだけだ。俺を敵として攻撃しようとはしない。同族に絡まれて迷惑してる、その程度の抵抗。
舐めやがって。
その油断が、お前の負けだ。
「慎吾、お前は……もう行け!」
振り向くと、慎吾はぽかんと突っ立っていた。あいつの目には、知らない男が夜道で一人、空気と相撲を取っているようにしか見えていないはずだ。
「や、やば……」
慎吾が携帯を構えかけて、やめて、走って逃げた。
いい。それでいい。通報されたって、俺の名前はどこにもないんだから。
◇
影が身をよじる。腕の中でずるりと形が崩れて、逃げようとする。
逃がすかよ。
こいつを離したら、こいつはまた誰かを喰う。慎吾かもしれない。ユメかもしれない。母さんかもしれない。そして喰われたことにすら、誰も気づかない。
警察は呼べない。灯りの下の人間たちは誰も視えない。俺の言葉は誰の記憶にも残らない。
誰も、助けられないなら。
「……俺が、やるしかないだろうが!」
叫んだ瞬間、腹の底で、何かが目を覚ました。
空腹だった。
いや、そんな上品なもんじゃない。存在を丸ごと喰われて、空っぽになった俺の芯が――目の前の「これ」を見て、口を開けたんだ。
これは喰える、と。
これはお前のぶんだ、と。
本能なんて言葉じゃ足りない。喰われた側の飢えだ。奪われた側の、取り返す権利だ。
影の冷たさが、急に「旨そう」に感じられた。自分で自分にぞっとする。でも、止まらない。止める理由が、一つも見つからない。
こいつらは俺の人生を喰った。
なら俺は――こいつらを喰って、取り返す。
俺は影の頭を両手で固定して、大きく、口を開けた。




