第3話 どこにもいない俺
市役所の窓口で、俺は番号札を取った。
機械はちゃんと札をくれた。「三十七番」。この数日で一番まともに扱われた瞬間が、発券機相手だっていうのは、笑うところなんだろうか。
「三十七番の方ー」
窓口の女性職員は、俺を見て、ちゃんと「いらっしゃいませ」と言った。
人間は、俺が視界に入れば一応「見える」らしい。ただし、記憶に残らない。関心が持てない。数十秒で、俺という情報は頭からこぼれ落ちる。この数日で学んだ、俺の新しいルールだ。
「住民票の写しが欲しいんですけど。灰島トワ。灰色の島に、永遠のトワで」
「はい、少々お待ち……」
職員が端末を叩く。首をかしげる。もう一度叩く。
「……該当がございませんね。ご住所は?」
住所を言う。母さんと妹が今も住んでいる、あの家の住所を。
「こちらの住所ですと……灰島様の世帯は、二名でご登録ですね」
「二名」
「はい。あの、失礼ですが、どういったご関係で……ええと」
職員の視線が、ふっと揺れた。
「……あら? わたし今、何をお調べしてました?」
ほら、これだ。
会話の途中で、俺は職員の頭から消えた。彼女は手元の画面と俺の顔を見比べて、営業スマイルのまま困っている。悪いのはあんたじゃない。分かってる。分かってるけど。
「……もういいです。ありがとうございました」
俺は窓口を離れた。
戸籍にも、住民票にも、俺はいない。十六年分の予防接種も、健康診断も、テストの答案も、どこかにあったはずの全部が、ない。
帰り際、庁舎の隅の証明写真機に入った。最後の悪あがきだ。金を入れて、椅子の高さを合わせて、フラッシュを浴びた。
吐き出された写真には、青い背景幕だけが、四枚並んで写っていた。
◇
その夜、俺は河川敷にいた。
寝床は確保してある。学校の裏手の旧体育倉庫。鍵の壊れた扉のことは、在校生の俺しか知らない。元、在校生か。
金はまだ財布にある。自販機とセルフレジは、俺を拒まない。硬貨を入れれば飲み物が落ちてくるし、バーコードを通せばレジは合計を表示する。
機械だけが、俺を平等に扱ってくれる。
……なあ、これって「生きてる」って言うのか?
誰の記憶にもいなくて、どの書類にもいなくて、写真にも写らない。触れられるのは自販機のボタンだけ。俺がここで川に落ちて死んでも、誰も気づかない。捜索願すら、出す名前がない。
消えてるのと、同じじゃないか。
膝を抱えたところで――土手の上を、「それ」が通った。
影が服を着たような輪郭。縦に裂けた口。この街には、あれが何匹もうろついている。人間たちは誰も気づかないまま、その横を通り過ぎていく。
俺は立ち上がって、階段を上って、そいつの進路のど真ん中に立った。
自棄になったわけじゃない。……いや、三割くらいは自棄だったかもしれない。でも七割は、確かめたかった。
化け物は、俺の真横をすり抜けた。
肩が触れそうな距離で、警戒の素振りひとつなく。
足元の石を拾って、投げた。影の背中にぼすっと当たる。そいつは初めて振り向き、俺を「見て」――そして、興味なさそうに向き直った。
敵じゃない。餌でもない。そこにいるのが当たり前の、同じ側のもの。
「……お前ら、俺を仲間だと思ってんのか」
存在を喰われて、存在値がゼロになった俺を。
人間の側から見れば、俺はもういない。化け物の側から見れば、俺は同族。
どっちの世界にも、俺の席はない。
笑えてきた。乾いた笑いが夜の河川敷に落ちて、誰にも聞かれずに消えた。
――その時。
化け物が、ふいに進路を変えた。
土手の下、遊歩道。街灯の輪の中を、見覚えのあるブレザーの背中が歩いている。うちの学校の制服だ。影はその背中に狙いを定めて、音もなく、滑るように速度を上げた。
あの口が開けば、あいつは「最初からいなかったこと」になる。
俺と、同じに。
考えるより先に、足が動いていた。




