第2話 席のない教室
化け物に素手で殴りかかるなんて、正気の沙汰じゃない。
でもあの時の俺には、失うものが一つも残っていなかった。正気なんて、とっくに置き去りだ。
伸ばした手は、影の胴体に――届いた。
冷たい。真冬の水路に腕ごと突っ込んだような冷たさ。けれど、確かな手応えがあった。俺は体当たりの勢いのまま、そいつをベンチから引き剥がした。
「そいつは……駄目だ!」
化け物が、初めて俺を「見た」。
顔なんてないくせに、見られている、とはっきり分かった。縦に裂けた口が、戸惑うように波打つ。
攻撃してこない。威嚇もしない。ただ――困惑していた。
――なんで、同族が邪魔をする?
そう言われた気がした。
化け物はずるずると後ずさり、滑り台の影に沈むように消えた。逃げた、というより、関わり合いを避けた。駅前で変な奴に絡まれた時の、あの引き際だった。
ベンチのサラリーマンは、何も知らずに寝息を立てている。あんた今、人生ごと消えるところだったんだぞ。
俺は自分の両手を見た。指先がまだ冷たい。
……触れた。
誰にも見えない化け物に、俺は触れて、押し返した。そして向こうは最後まで、俺を敵だと思っていなかった。
それが何を意味するのか。この夜の俺は、まだ半分も分かっていなかった。
◇
夜が明けて、俺は学校に行った。
行ってどうする、という問いには答えられない。ただ、確かめずにはいられなかった。家が駄目でも、学校なら。十六年の人生の半分を過ごした場所なら、何か残っているんじゃないかって。
校門で、誰も俺に挨拶しなかった。
いや、正確に言おう。何人かは俺を見た。見て、すぐに視線が滑った。ガードレールや電柱を見るのと同じ目で。
二年三組。俺の教室。後ろの扉から入る。
誰も振り向かない。
俺の席は、窓際の列の前から三番目だった。
――だった、はずの場所に、別の奴の机があった。
数える。机は三十九。うちのクラスは四十人だ。だった。今は三十九人のクラスとして、何の不自然もなく、机の間隔まで綺麗に整っている。
俺一人分、世界が詰められている。
教卓の名簿を勝手に開いた。は行。灰島の名前は、ない。「野田」の次は「橋本」。俺の入るべき隙間ごと、印刷が詰まっていた。
「だからさー、カラオケは金あるときに行こうって」
声のした方を見る。慎吾だ。昨日、駅前で「再来週」って約束した田代慎吾。取り巻きの連中と、まったく同じ話題で笑っている。
ただし、その記憶の中に、俺はいない。
「……慎吾」
声をかけると、慎吾は振り向いた。
「ん? ……えっと、どちらさん?」
丁寧だった。うちのクラスに用のある他校の生徒か何かだと思ったんだろう。悪意ゼロの、完璧な他人の顔。
「いや……人違い、だった」
「そっすか」
慎吾はあっさり向き直った。三秒後にはもう、俺に話しかけられたことすら覚えていないような横顔で笑っていた。
チャイムが鳴って、担任が入ってきて、出席が取られた。
三十九人分の名前が呼ばれて、三十九人分の返事があって、ホームルームは何事もなく終わった。
俺は教室の後ろに立ったまま、最後まで一度も、誰の視界にも引っかからなかった。
◇
廊下に出ると、掲示板に先月の球技大会の写真が貼ってあった。
クラス対抗リレーで俺がアンカーを走った、あの日の写真だ。ゴールテープを切る瞬間、みんなでバカみたいに撮った集合写真。
俺は、いなかった。
合成で消したような不自然さすらなく、最初から三十九人で撮った写真として、みんなが綺麗に肩を組んでいた。俺が入っていたはずの真ん中は、詰められて、なかったことになっていた。
……ああ、そうかよ。
机も、名簿も、写真も、記憶も。
じゃあ次だ。学校が駄目なら、役所はどうだ。戸籍は。住民票は。
俺がこの世界に生きていたっていう証拠を、探しに行く。
紙切れ一枚でいい。
一枚でいいから――残っていてくれ。




