第1話 世界に忘れられた日
俺の人生最後の晩飯は、コロッケだった。
「トワ、ソースそっち」
「ん」
「お兄、取りすぎ。三個目じゃん」
「育ち盛りなんだよ」
「わたしも育ち盛りなんですけど?」
妹のユメが箸で皿を守り、母さんが「二人とも行儀」と笑う。灰島家の食卓は、今夜も平和だった。
父さんが単身赴任でいない分、母さんと妹と俺の三人。四人掛けのテーブルの、父さんの席だけが空いている。いつもの風景。いつもの味。
――この「いつも」に値段がつくなら、俺は全財産を払ってでも買い戻す。
まあ、それを知るのは、少し先の話だ。
◇
翌日の放課後は、部活の連中とだらだら帰った。
「灰島、今日カラオケ行かね?」
「金欠。来週な」
「来週って言って三回流したろお前」
「じゃあ再来週」
「おい」
笑いながら、駅前で別れた。じゃあな、また明日、と手を振って。
――また明日。
なんて軽い約束だったんだろうと思う。また明日。明日も俺がいて、あいつらが俺を覚えている。そんなの、疑ったこともなかった。
家までの近道に、古い水路沿いの細い路地がある。街灯が一本しかなくて、夕方を過ぎると青黒い影に沈む道だ。
その日、路地の真ん中に、「それ」はいた。
最初は、大きなゴミ袋だと思った。
次に、うずくまった人だと思った。
どっちでもなかった。
それは、影が服を着たような輪郭で、路地の幅いっぱいに膨らんでいた。頭のあるべき場所に頭がなく、代わりに――口だけがあった。縦に裂けた、あまりにも大きな口が。
足が止まった。逃げるという発想が出てくるより早く、心のどこかが妙に冷静に理解した。
ああ、これは、駄目なやつだ。
出会ったら終わりのやつだ。
「――――」
口が、開いた。
悲鳴は出なかった。痛みもなかった。
ただ、世界がぐるりと裏返って、俺は「食われた」。
◇
気がつくと、俺は路地に立っていた。
体はある。手も足も動く。制服も、カバンも、そのままだ。
「……なんだ、今の」
夢? 立ったまま気絶でもしたのか? スマホを見ると、時刻は数分しか経っていない。
なんだよ。脅かしやがって。
俺は苦笑いして、家に向かった。角を曲がると、うちの明かりが見えた。台所の窓。今夜の飯はなんだろう。昨日がコロッケだから、今日は魚かな。
玄関のドアノブに手をかける。
開かない。
鍵がかかっていた。おかしい。この時間、母さんは必ず家にいる。俺はインターホンを押した。
『はい』
「母さん、俺。鍵開いてない」
『……はい? どちらさまですか』
「は? 俺だって。トワ」
『……失礼ですが、どちらの?』
インターホン越しの声は、間違いなく母さんの声だった。
間違いなく母さんの声で、完璧に、他人向けの声だった。
「……いや、え? 母さん? 俺だよ、トワ。灰島トワ。あんたの息子」
沈黙があった。長い沈黙だった。
やがてドアが薄く開いて、チェーン越しに母さんの顔が覗いた。その後ろから、ユメが不安そうにこちらを見ている。
母さんは、俺を見た。
上から下まで、じっくりと。初めて見る人間を警戒する目で。
「……あの、うちには息子はいませんけど。どこかと間違えてません?」
「――――」
「ママ、その人だれ?」
「いいから、ユメは中に入ってなさい」
母さんが妹を背中にかばった。
俺から、かばった。
「ちょ、ちょっと待って。ユメ、俺だよ。昨日コロッケ取り合っただろ。三個目取って、お前が怒って――」
「……なんで、わたしの名前」
ユメの顔から血の気が引いていくのが見えた。怯えていた。知らない男が、自分の名前と昨日の晩飯を知っている。それは確かに、恐怖でしかない。
ドアが、閉まった。
鍵と、チェーンの音がした。
◇
それからのことは、あまりよく覚えていない。
スマホの連絡先から、家族の番号が消えていた。友達の番号も、全部。というよりアカウントそのものが「存在しないユーザー」になっていた。
財布の学生証は、白紙になっていた。
夜の公園のベンチで、俺は自分の手のひらを見た。ちゃんとある。冷たいけど、ちゃんと血が通ってる。生きてる。ここにいる。
いるのに。
――誰も、俺を覚えていない。
あの路地で、あの口に、食われたのは体じゃなかった。
俺という「存在」が、丸ごと食われたんだ。灰島トワは最初からいなかったことになって、それでも中身だけが、こうして置き去りにされている。
……なんだよ、それ。
なんだよ、それ!
膝の上で拳を握った時――公園の暗がりで、ずるり、と音がした。
顔を上げる。
滑り台の影から、「それ」と同じ輪郭の影が、another 一体、湧き出すところだった。縦に裂けた口。だが昨日のやつより小さい。そいつは近くのベンチで寝ていたサラリーマンのほうへ、音もなく伸びていく。
俺は反射的に立ち上がって――そして、気づいた。
そいつは、俺の真横を通った。
俺を、見なかった。
警戒するどころか、認識すらしていない。まるで俺を、道端の石ころか――それとも。
――同族、だと思ってるのか?
存在を食われて、存在値ゼロになった俺を。
影の化け物が、寝ている男の胸元に大口を開ける。あと数秒で、あの人も「最初からいなかったこと」になる。誰にも気づかれず、誰にも悼まれず、俺と同じように。
……ふざけんな。
気づいたら、足が出ていた。
世界は俺を忘れた。なら、覚えてもらう方法は一つだけだ。
俺を消したお前らを――一匹残らず、喰い返してやる。




