第48話 俺だけが証拠だ
十一月の半ば、俺は地下書庫にいた。
灯守第七支部の、八十年分の報告書が眠っている場所。
俺は、昭和五十二年の箱を開けた。
『滝沢イサム(十四) 存在値〇。捜索打ち切り』
――四十年以上前に、この街で消えた中学生。
俺は、その報告書を、机に置いた。
◇
「――何をしているのですか」
ヰナが、階段を降りてきた。
「読んでる」
「なぜ」
「――七位を喰った時、いろいろ入ってきたからだ」
俺は、報告書を指した。
「十七人分と、家族三人分。……それだけじゃなかった」
彼女の顔が、変わった。
「――他にも?」
「あった」
俺は、頭を押さえた。
「量が多すぎて、整理できてない。……百二十年分だ。あいつ、百二十年、拾い続けてた」
◇
目を閉じると、流れてくる。
誰かの、初任給。誰かの、犬の名前。誰かの、大学受験の失敗。誰かの、初恋。誰かの、離婚した日。
――全部、俺の記憶じゃない。
なのに、俺の中にある。
ほとんどは、断片だ。名前もわからない。いつの時代かもわからない。
でも、いくつかは、はっきりしている。
「――滝沢イサム」
俺は、その名前を、口に出した。
「昭和五十二年の夏に、消えた」
ヰナが、息を呑んだ。
「――記憶が、あるのですか」
「ある」
俺は、報告書を見た。
「あいつ、野球部だった。二年で、まだ球拾いで、それでも毎日一番早く来て、グラウンドに水を撒いてた」
俺は、目を閉じた。
「消える三日前に、初めて練習試合に出た。……ライトで、一球も飛んでこなかった」
俺は、笑った。
「試合のあと、めちゃくちゃ喜んでた。『出た』って」
◇
ヰナは、階段の途中で、動かなかった。
「……灰島さん」
「なんだ」
「その記憶は、誰から抜かれたものですか」
「たぶん、母親だ」
俺は、報告書を指した。
「息子が消えて、記録も消えて、それでも、四十年、覚えてた人がいたんだよ」
俺は、その紙を、そっと箱に戻した。
「――で、その人も、いつか思い出せなくなった」
地下書庫が、静かだった。
「落ちたのを、七位が拾った」
「……」
「――今、俺が持ってる」
◇
俺は、椅子に座って、頭を抱えた。
「なあ、ヰナ」
「はい」
「これ、どうすりゃいいんだ」
「――どう、とは」
「返す相手が、いないんだよ」
俺は、顔を上げた。
「滝沢イサムの母親は、たぶんもう生きてない。四十年前だぞ」
「……はい」
「返せない」
俺は、机を叩いた。
「返せないのに、俺の中にある。……あいつが球拾いで、毎日一番早く来て、ライトで一球も飛んでこなくて、それでも喜んでたって、俺だけが知ってる」
俺は、そこで、言葉が止まった。
――七位も、同じことを言った。
拾うことと、綴じることと、読むことだけ。
◇
「――灰島さん」
ヰナが、階段を降りきって、俺の前に立った。
「一つ、提案があります」
「なんだ」
「――書きませんか」
「書く?」
「はい」
彼女は、地下書庫の棚を見回した。
「ここには、八十年分の報告書があります。名前と、日付と、状況だけが書かれた紙が」
彼女は、俺を見た。
「――中身が、ありません」
俺は、顔を上げた。
「滝沢イサムの報告書には、『存在値〇。捜索打ち切り』としか書いてありません。……彼が野球部だったことも、球拾いだったことも、水を撒いていたことも、書いてありません」
彼女は、鞄からノートを出した。
あの、大学ノートだ。
「書けるのは、あなただけです」
◇
俺は、そのノートを、受け取った。
「……返す相手がいなくても、か」
「はい」
「意味あるか、それ」
「あります」
ヰナは、即答した。
「三年前、あなたは、誰にも思い出してもらえませんでした」
彼女は、まっすぐ俺を見た。
「その三年間、あなたを覚えていた人間は、一人もいません」
「……ああ」
「――ですが、あなたは、自分でノートを書いていました」
俺は、息を呑んだ。
「七冊、書きました。誰にも読まれないノートを」
彼女は、静かに言った。
「あれは、無意味でしたか」
◇
俺は、答えられなかった。
――無意味じゃない。
あの七冊があったから、俺は、俺が誰かを忘れずに済んだ。
誰にも読まれなくても、書いてあれば、俺は俺だった。
「……ヰナ」
「はい」
「紙、あるか」
「地下書庫の備品を、支部長が許可しています」
「――用意がいいな」
「先週、申請しました」
俺は、笑った。
「先週?」
「あなたが、七位を喰った翌日です」
彼女は、当たり前のように言った。
「――こうなると、思っていました」
◇
その日から、俺は書き始めた。
地下書庫の隅に、机を一つ借りて。
昭和五十二年の、滝沢イサムから。
『滝沢イサム 十四歳 野球部 二年 球拾い 毎日一番に来てグラウンドに水を撒いた 消える三日前の練習試合でライト 一球も飛んでこなかった それでも喜んでいた』
書いて、報告書の箱に、一緒に入れた。
――誰も、読まないかもしれない。
でも。
俺は、次の箱を開けた。
昭和五十三年。
――四十年分ある。
俺は、ペンを握り直した。
「俺だけが、あいつらが生きてた証拠だ」
三日前、影の中で、俺はそう思った。
今は、少し違う。
――証拠は、紙に書ける。




