第44話 抜け落ちた俺
俺は、その場で、笑った。
「――灰島だよ」
「灰島……」
沢井は、俺の顔を、じっと見た。
一拍。
二拍。
「――ごめん、やっぱり思い出せない」
「いいよ」
俺は、手を離した。
「三年間、返ってよかったな」
「うん。……ほんとに、ありがとう」
彼女は、頭を下げた。
俺は、その家を出た。
◇
通学路を、歩いた。
三年前、毎朝、俺と沢井がすれ違っていた道だ。
あいつは朝練帰りで、俺は普通の登校で、毎日「おはよう」だけ言い合っていた。
――今、あいつの中に、その三年間が戻っている。
朝の五時。暗い部屋。目覚まし。ジャージ。玄関。息が白い。走り出す。
全部、戻った。
――ただ、通学路ですれ違う男子生徒だけが、いない。
「――灰島さん」
ヰナが、後ろから追いついてきた。
「聞こえていました」
「そうか」
「……返却された記憶から、あなただけが」
「抜けてた」
俺は、あっさり言った。
「まあ、そりゃそうだよな」
「灰島さん」
「俺の存在値、十一だぞ」
俺は、歩きながら言った。
「返す記憶の中に、存在値十一の人間が入ってるわけがない。……三年前に俺が消えた時点で、あいつの記憶の中の俺も、消えてる」
「それは」
「七位が拾ったのは、消えたあとの記憶だ」
俺は、空を見た。
「――だから、最初から入ってなかったんだよ」
◇
ヰナは、しばらく黙って歩いていた。
やがて、彼女が言った。
「……怒らないのですか」
「怒る?」
「はい」
「――誰に」
俺は、笑った。
「七位は喰った。あいつが悪いわけじゃない。沢井も悪くない。ヰナも悪くない」
俺は、両手をポケットに入れた。
「元から、そうだった。それだけだ」
「――そんなわけ」
「あるだろ」
俺は、足を止めた。
「三年前から、ずっとそうだった。俺がいた場所が、全部、空白になった。……今日、その空白が一個増えただけだ」
「増えたのです!」
ヰナが、叫んだ。
通学路に、彼女の声が響いた。
「増えたんです! ゼロが一個増えるのと、何もないのは、違います!」
「――ヰナ」
「あなたは、いつも」
彼女の声が、割れた。
「あなたは、いつもそうやって、自分の分だけ、数に入れない」
◇
俺は、彼女を見た。
白羽ヰナが、通学路の真ん中で、泣いていた。
三週間、この女は一度も泣かなかった。俺が影に沈んだ時も、駐車場を一棟壊した時も、三日寝込んだ時も。
「……ヰナ」
「十七人、全員に返しました」
彼女は、涙を拭わずに言った。
「十七人全員が、あなたに礼を言いました。そして、十七人全員が、あなたを思い出しませんでした」
「――そうだな」
「その十七回を、あなたは、一回も数えていません」
彼女は、俺の前に立った。
「私は、数えました」
彼女は、鞄からノートを出した。
灯守の様式ではない、普通の大学ノートだった。
「――なんだそれ」
「私の、記録です」
彼女は、それを開いた。
中には、日付と、短い文章が並んでいた。
『十月三十一日 灰島さん、七十四歳男性に返却。相手は泣いた。灰島さんは、廊下で膝をついていた』
『十一月二日 二宮ケイタに返却。相手は三十分泣いた。灰島さんは、ずっと立っていた』
『十一月三日 主婦・T氏に返却。笑われた。灰島さんも笑った』
――十七件、全部あった。
最後の一行は、今日の日付だった。
『十一月八日 沢井ミチルに返却。三年間が戻った。灰島さんは「どちら様」と聞かれた』
その下に、一行。
『――灰島トワは、十七人を救った』
◇
俺は、そのノートを、しばらく見ていた。
「……ヰナ」
「はい」
「これ、いつから書いてる」
「三週間前からです」
彼女は、ノートを閉じた。
「あなたが、自分のノートに、自分のことを書かないからです」
「――書いてるだろ」
「書いていません」
彼女は、はっきり言った。
「あなたのノートには、失ったものと、他人の名前しか書いていません」
俺は、返す言葉がなかった。
――そうだった。
七冊目のノート。俺が書いてきたのは、失ったものの一覧と、覚えておくべき他人の名前だけだ。
俺のことは、一行も書いていない。
「――だから、私が書きます」
ヰナは、ノートを鞄に戻した。
「あなたが書かない分を、私が書きます」
彼女は、涙を拭って、背筋を伸ばした。
「――教育担当ですので」




