第43話 返却
最初の返却は、七十四歳の男性だった。
ヰナが選んだ。理由は「一番、抜けた量が少ないから」。
施設の面会室で、俺はその人の前に座った。
「――こんにちは」
「ああ、どうも」
穏やかな人だった。
娘の結婚式で流れた曲を、抜かれている。
「握手、いいですか」
「握手?」
「はい」
彼は、少し不思議そうな顔をして、手を出してくれた。
俺は、その手を握った。
◇
――返し方は、わからなかった。
やってみて、初めてわかった。
俺の中にある「本」を、その人の方へ、押し出す。それだけだ。
押し出す、という感覚が、うまく言葉にならない。
ノートを渡すのに、近い。
――こっちのページを、そっちに移す。
握った手から、何かが、流れた。
◇
「――あ」
男性の目が、見開かれた。
「あ、あ」
彼は、俺の手を握ったまま、口を開けた。
「……『花』だ」
彼は、言った。
「娘の結婚式で流れたの、『花』だ。滝廉太郎の。あいつ、中学の合唱コンクールでソプラノやって……ああ、そうだ、それで、それで」
彼の目から、涙が落ちた。
「――思い出した」
◇
俺は、面会室を出て、廊下の壁にもたれた。
膝が、笑っていた。
――返せた。
三年間、俺にできたのは、覚えていることだけだった。
今、初めて、返せた。
「――灰島さん」
ヰナが、隣に立った。
「存在値を測ります」
「今?」
「今です」
彼女は、測定器を当てた。
そして――少し、眉を寄せた。
「……十一・二です」
「減ってるな」
「〇・二、減りました」
彼女は、測定器をしまった。
「返却は、あなたの存在値を消費します」
「――だろうな」
「一人につき、〇・二」
彼女は、俺を見た。
「十七人で、三・四です」
◇
俺は、指を折った。
「十一・四から、三・四引くと」
「八・〇です」
「――まだ、三・一より上だな」
「灰島さん」
「なんだ」
「――家族の三人分も、返すのですか」
俺は、答えなかった。
答えられなかった。
「返せば、さらに〇・六です」
彼女は、続けた。
「七・四になります。……ですが、問題は、そこではありません」
「わかってる」
俺は、天井を見た。
「――返したら、あの三人は、俺を思い出す」
「はい」
「三年間、いなかった息子と兄を、いきなり」
俺は、目を閉じた。
「――受け止められるかな」
◇
その週、俺は十七人を回った。
二宮ケイタ。一年分の受験勉強が戻って、あいつは声を上げて泣いた。「俺、めっちゃ頑張ってたじゃん」と言って、それから三十分泣いた。
主婦。玄関の鍵の開け方が戻って、「ばかみたい」と笑った。
会社員。降りる駅が戻って、「もう間違えません」と頭を下げた。
――全員、返せた。
そして、最後の一人が、沢井ミチルだった。
◇
沢井の家の玄関で、俺は手を差し出した。
「握手、いいか」
「なにそれ、変なの」
あいつは、笑いながら、手を出した。
俺は、握った。
――押し出した。
三年間の、朝が。
◇
「――あ」
沢井の目が、見開かれた。
「あ、あ、あ」
彼女は、玄関にしゃがみ込んだ。
「五時、五時に起きて、それで、まだ暗くて、寒くて、それで」
彼女は、両手で顔を覆った。
「なんで、忘れてたんだろ」
「……忘れてない」
俺は、言った。
「落としただけだ」
「落としただけ……」
「拾って、返しただけだよ」
彼女は、顔を上げた。
涙で、ぐしゃぐしゃだった。
「――ありがとう」
彼女は、そう言って、それから。
「……えっと」
俺を、見た。
「――ごめん。どちら様、だっけ」




