第41話 棚の外
影の中は、暗くて、静かで、境目がない。
俺は、そこを何度も通ってきた。三年間、人目を避けて移動するのに、ずっと使ってきた。
――ここは、俺の場所だ。
七位が、俺の隣に落ちてきた。
背表紙の巨体が、影の中で、輪郭を失っていく。
『――ここは』
「俺の影の中だ」
俺は、言った。
「棚じゃない。……あんたの再生は、ここじゃ効かない」
『……なるほど』
七位の声は、慌てていなかった。
百二十年、この落ち着きを保ってきた存在だった。
『――計算違いだ』
「そうか」
『四十年前の九人は、ここまで考えなかった』
七位は、静かに言った。
『お前は、影に沈める側の力を持っていた。……珍しいな』
「八位から取った」
『そうか』
◇
俺は、右腕を上げた。
黒い腕。捕食の腕。
「――一つ、聞いていいか」
『どうぞ』
「あんた、俺の記憶も持ってるか」
七位は、しばらく黙った。
『三年前の、八月十一日か』
俺の心臓が、跳ねた。
『持っている』
「――誰の」
『お前の母親と、妹と、父親の、お前に関する記憶だ』
◇
影の中が、静かだった。
「――なんで」
『落ちていた』
七位は、あっさり言った。
『三年前、この街で大量の記憶が落ちた。……一人の少年に関する記憶が、何十人分も、同時に』
俺は、拳を握った。
『わたしは、拾った。綴じて、棚に入れた』
「――返せ」
『返せない』
「返せって言ってんだ!!」
俺は、叫んだ。
影の中で、俺の声が、響かずに吸われた。
『わたしにできるのは』
七位は、繰り返した。
『拾うことと、綴じることと、読むことだけだ』
◇
俺は、その言葉を聞いて――
――笑った。
「――そうかよ」
俺は、右腕を構えた。
「じゃあ、俺がやる」
『だから、返せないと』
「あんたにはな」
俺は、言った。
「でも、俺は、あんたじゃない」
俺は、一歩、前に出た。
「俺は、拾って、綴じて、読んで――それを、人に会いに行って喋ることができる」
七位の、開いた本の頭が、傾いた。
『……喋る』
「そうだ」
俺は、頷いた。
「あんた、百二十年、ここで一人で読んでたんだろ」
『そうだ』
「――誰かに、喋ったことは?」
七位は、答えなかった。
答えないまま、ページが、一度だけ、めくれた。
『……ない』
「だろうな」
俺は、笑った。
「本ってのはな」
俺は、腕を振り上げた。
「――誰かに、読ませるもんなんだよ」
◇
右腕が、七位の胴体に、めり込んだ。
再生は、しなかった。
背表紙が、剥がれて、影の中に散った。
散った先から、俺の中に、入ってきた。
――流れ込んできた。
『――ああ』
七位の声が、遠くなった。
『そうか』
最後の声は、静かだった。
『――貸出だな。これは』
◇
流れ込んだのは、十七人分だった。
沢井ミチルの、三年間の朝。
二宮ケイタの、一年間の受験勉強。
七十四歳の男の、娘の結婚式で流れた曲。
主婦の、玄関の鍵の開け方。
会社員の、自分の降りる駅。
――全部、生きている人間の記憶だった。
第1章で、俺が八位から受け取ったのは、喰われて死んだ四十七人の記憶だった。
あれは、覚えていることしかできなかった。
――今度は、違う。
この十七人は、生きている。
◇
そして。
十七人分の、その奥に。
もう一つ、あった。
――三人分。
母さんの記憶。
ユメの記憶。
父さんの記憶。
三年前の、八月十一日までの、俺に関する、全部。
◇
俺は、影の中で、膝をついた。
息が、できなかった。
――母さんの中の、俺がいた。
小学校の入学式で、俺が泣いた日。
中一の夏、俺が初めて夜更かしして怒られた日。
三年前の八月十日、俺が「明日、遊びに行ってくる」と言った日。
――ユメの中の、俺がいた。
俺がユメに自転車を教えた日。
ユメが俺のプリンを勝手に食って、俺が本気で怒った日。
――全部。
俺は、影の中で、声を上げて泣いた。
三年ぶりだった。




