第39話 憶
地下五階の底は、閲覧室だった。
円形の、天井の高い部屋。
壁は、全部、本だった。床から天井まで、隙間なく。天井もそうだった。ドーム状の天井が、背表紙で埋まっていた。
その中心に、それは座っていた。
――椅子に、座っていた。
人の形はしていなかった。
背表紙が、無数に折り重なって、人が座っている形になっている。頭に当たる部分は、開いた本だった。ページが、ゆっくりとめくれ続けている。
膝の上に、一冊の本を広げていた。
――読んでいた。
「……七位」
ヰナが、短刀を構えた。
『――静かに』
声は、耳から来なかった。
直接、頭の中に置かれた。
『ここは、図書館だ』
◇
俺は、動かなかった。
――こいつは、攻撃してこない。
膝の本を、めくっている。ページをめくる音だけが、部屋に響いていた。
「あんた」
『声が大きい』
「――抜いた記憶を、返せ」
『返す?』
開いた本の頭が、こちらを向いた。
ページの動きが、止まった。
『これは、返却されたものだ』
「返却?」
『そうだ』
七位は、膝の本を、静かに閉じた。
『人は、覚えていられなくなったものを、置いていく。……わたしは、それを集めている』
「――抜いたんだろ!」
『抜いていない』
声は、あくまで静かだった。
『落ちていたものを、拾った』
◇
「――嘘だ」
俺は、一歩、前に出た。
「沢井は、三年間、毎朝五時に起きた。あれを『覚えていられなくなった』わけがない」
『では、なぜ落ちていた』
「――」
『三年間、毎朝五時。……その記憶を、あの娘は、いつ最後に思い出した?』
俺は、言葉に詰まった。
『高校に入り、部が変わり、環境が変わった。あの娘は、中学の朝練を、半年、一度も思い出さなかった』
七位は、椅子の肘掛けに手を置いた。
『思い出されない記憶は、少しずつ、緩む。……緩んだものは、落ちる』
「そんなわけ」
『わたしは、拾っているだけだ』
声が、静かに響いた。
『拾って、綴じて、棚に入れる。……ここにあるものは、全部、誰かが落としたものだ』
◇
俺は、周りの壁を見た。
背表紙が、何千とあった。
十七人分じゃない。
――何千人分だ。
「……四十年分か」
『もっとだ』
七位は、天井を見上げた。
『百二十年ほど、ここにいる』
「百二十年!?」
『図書館ができる前から、ここにいた』
開いた本の頭が、傾いた。
『図書館ができたのは、ちょうどよかった。……人が、たくさん来る』
◇
「――なあ」
俺は、聞いた。
「あんた、何のために集めてる」
『――質問の意味が、わからない』
「捨てる気か? 食う気か? それとも」
『読んでいる』
七位は、そう言った。
あまりに、簡単な答えだった。
『百二十年、ここで読んでいる』
部屋が、静かになった。
『人の一生は、面白い。……誰も、自分の一生を、最後まで読み返さない。だから、わたしが読む』
開いた本の頭から、ページをめくる音がした。
『沢井ミチルの三年間は、良かった』
俺の中で、何かが、切れた。
◇
「――返せ」
俺は、言った。
「読み終わったなら、返せよ」
『返せない』
「なんで」
『棚から抜いたものを、元の持ち主に戻す方法を、わたしは持っていない』
七位は、静かに言った。
『わたしにできるのは、拾うことと、綴じることと、読むことだけだ』
――ああ。
俺は、その言葉を聞いて、わかった。
こいつは、悪じゃない。
――こいつは、俺と同じだ。
覚えていることしか、できない。
◇
「――だったら」
俺は、右腕を上げた。
肘から先が、黒く膨らんだ。
八位を喰って手に入れた、怪物の腕。
「――俺が、やる」
『……なにを』
「あんたを、喰う」
俺は、言った。
「喰って、あんたの持ってる全部を、俺の中に入れる」
『無意味だ』
七位は、初めて、少し声を強めた。
『わたしが返せないものを、お前が返せる道理はない』
「――道理はな」
俺は、笑った。
「でも、俺は、返せなかったものを覚えたまま、三年生きてる」
俺は、前に出た。
「――あんたと、同じ側だ」




