第37話 覚えとけよ
その夜、ヰナが、うちに来た。
正確には、うちの前の電柱のところに立っていた。
「――何してんだ」
「待っていました」
「言えよ」
「言うと、断られると思いました」
彼女は、鞄から封筒を出した。
「これを、渡しておきます」
「なんだ」
「――私の、遺書です」
俺は、封筒を落としかけた。
「は?」
「灯守の討伐者は、全員、支部に遺書を預けています」
彼女は、淡々と言った。
「ですが、私のものは、開封しても意味がありません」
「なんでだ」
「私が喰われた場合、灯守の記録からも、私は消えます」
彼女は、俺を見た。
「遺書という紙が、書式ごと消えます。……ですから、あなたに預けます」
◇
俺は、その封筒を、手のひらで測った。
軽かった。
「――なんで、俺なんだ」
「あなたは、消えた人を、覚えていられる人だからです」
ヰナは、そう言った。
「三年間、誰にも思い出してもらえなかったあなたは、他人が消えたことを、絶対に忘れない」
「……そりゃ、褒めてんのか」
「事実を述べています」
彼女は、少しだけ、目を伏せた。
「灰島さん。……私は、明日、死ぬかもしれません」
「言うなよ」
「言います」
彼女は、顔を上げた。
「四十年前、九人で行って、二人帰ってきました。今回は、二人で行きます」
街灯の光が、彼女の顔を照らしていた。
この女は、いつも背筋を伸ばしている。今も、そうだ。
「私が消えたら、灯守の名簿から、私の行が消えます。ホワイトボードの数字も、報告書も、給与記録も。……全部」
「――ああ」
「支部長も、佐倉さんも、梶さんも、私を忘れます」
彼女は、そこで、初めて、少し声を落とした。
「――誰も、私が働いていたことを、覚えていません」
◇
俺は、封筒を持ったまま、立っていた。
――同じだ。
三年前の、俺と。
誰にも思い出してもらえなかった、あの三年と。
「――ヰナ」
「はい」
「その遺書、いらねえ」
俺は、封筒を、彼女に押し返した。
「……なぜですか」
「開ける気がねえからだ」
俺は、言った。
「あんた、死なねえよ。俺が死なせない」
「灰島さん」
「あと」
俺は、彼女の目を見た。
「――もし万一、あんたが消えたら」
俺は、ノートを出した。
七冊目の、まだ半分白紙のやつ。
「俺が書く」
俺は、ページを開いて、ペンを走らせた。
『白羽ヰナ 十六歳 灯守第七支部討伐者 存在値九八・二』
書いて、彼女に見せた。
「――報告書の様式じゃなくて悪いけどな」
「……様式が」
「様式は知らねえよ」
俺は、ペンを回した。
「でも、消えないぞ、これ」
◇
ヰナは、そのページを、長いこと見ていた。
街灯の下で。
両手で、鞄の持ち手を握って。
「――灰島さん」
「なんだ」
「もう一行、足していただけますか」
「なんて?」
彼女は、少し迷って、それから言った。
「――『毎朝、五時半に起きる』と」
俺は、書いた。
「あと」
「まだあるのか」
「『コーヒーが飲めない』と」
「飲めねえのかよ」
「苦いので」
「支部長、いつも三杯冷ましてるぞ」
「あれは、支部長のです」
俺は、笑って、書いた。
彼女は、それを見て、それから――ほんの少し、口の端を上げた。
この女が笑うのを見るのは、三度目だった。
◇
彼女が帰ったあと、俺は自分の部屋に上がった。
机の上のペン立てに、キャップの割れたシャーペンが刺さっていた。
俺は、ノートを開いて、今日の分を書いた。
『十月二十九日 明日、七位を喰いに行く』
書いてから、その下に、もう一行足した。
『ヰナが、遺書を渡そうとしてきた。断った』
書いてから、俺は、部屋の窓から下を見た。
台所の灯りが、まだついていた。
母さんが、洗い物をしている。
――四枚目の皿は、今日も出たんだろうか。
俺は、窓を閉めた。
閉めてから、小さく言った。
「――覚えとけよ、俺のこと」
誰にも、聞こえなかった。




