第36話 他人のために
三年前、俺が世界から消えた日。
俺が最初に思ったのは、こうだった。
――誰か、俺を思い出してくれ。
それだけだった。
喰った。八位を喰って、九位を喰って、存在値を〇・〇から三・一まで上げた。
全部、そのためだった。
母さんに、もう一度「トワ」と呼んでほしかった。ユメに「お兄ちゃん」と言ってほしかった。
――それが、俺の理由だった。
◇
「灰島さん」
支部のホワイトボードの前で、ヰナが言った。
「七位の討伐は、支部長が許可しません」
「知ってる」
「灯守の規則では、無許可の単独行動は、資格剥奪です」
「知ってる」
「――知っていて、行くのですか」
俺は、地図を見ていた。
赤い点、十七個。中心に、閉鎖された図書館。
「なあ、ヰナ」
「はい」
「俺、三年間、誰にも思い出してもらえなかった」
俺は、地図の中心を指した。
「その三年で、一つだけわかったことがある」
「なんですか」
「――忘れられるのは、本人のせいじゃない」
俺は、彼女を見た。
「俺は何も悪いことしてない。八位に喰われただけだ。なのに、三年、全部なくなった」
俺は、拳を握った。
「沢井も同じだろ。あいつ、毎朝五時に起きてただけだ。それを、丸ごと持ってかれた」
「……はい」
「――腹が立つんだよ」
俺は、言った。
「自分のことより、腹が立つ」
◇
ヰナは、しばらく黙っていた。
それから、彼女は、机の引き出しを開けた。
中から、一枚の書類を出した。
「――なんだそれ」
「出動申請書です」
彼女は、それを俺に見せた。
様式の枠に、細かい字がびっしり書き込まれていた。
『出動理由:市立中央図書館周辺における記憶欠損事案の実地調査』
『出動者:白羽ヰナ、灰島トワ(見習い)』
『目的:調査のみ。交戦は行わない』
「――交戦は行わない?」
「行わない、と書いてあります」
ヰナは、真顔で言った。
「書いてあることと、現場で起きることが違うのは、よくあることです」
俺は、書類を二度読んだ。
「……あんた」
「なんでしょう」
「めちゃくちゃ悪いこと考えるな」
「様式に則っています」
「様式の使い方が悪いって言ってんだよ!」
◇
九条支部長は、その申請書を、三十秒見ていた。
それから、眼鏡を外した。
「白羽」
「はい」
「これは、調査申請だな」
「はい」
「交戦は行わない、と書いてある」
「はい」
「――行わないな?」
「行いません」
ヰナは、まっすぐ前を向いて答えた。
支部長は、しばらく彼女を見ていた。
それから、判を押した。
こん、と乾いた音がした。
「――調査だ。いいな」
「はい」
「灰島くん」
「はい」
「君は見習いだ。見習いの仕事は、先輩の指示に従うことだ」
彼女は、俺を見た。
「白羽が『逃げろ』と言ったら、逃げろ。……これは命令だ」
「……はい」
「返事が遅い」
「はい」
◇
支部長室を出ると、廊下は夕方だった。
「――なあ、ヰナ」
「はい」
「支部長、気づいてるよな」
「気づいています」
彼女は、あっさり言った。
「あの人は、五人の部下を失いたくないだけです。……ですが、失いたくないのと、行かせないのは、別のことだと知っている人です」
「――だから判を押したのか」
「押した以上、責任はあの人が持ちます」
ヰナは、廊下の窓を見た。
「――帰りましょう。明日、朝六時です」
「早くね?」
「蒐は、朝が弱い」
「そうなのか」
「はい。……あと、朝なら、図書館に人がいません」




