第35話 抜けた一年
被害者の名簿を、俺はもらってきた。
正確には、ヰナが「見せられません」と言ったので、机の上に置いてあるのを見た。
「見ましたね」
「見てない」
「見ました」
「見えただけだ」
十七人。
名前と、年齢と、抜かれた記憶の内容。
俺は、上から順に読んでいって――十二番目で、指が止まった。
『沢井ミチル(十六) 抜けた記憶:中学三年間の陸上部の活動全般』
◇
――知ってる。
中学の同級生だ。三年間、陸上部の長距離をやっていた。
朝練が毎日六時半で、そのために五時に起きていた。三年の夏、県大会の予選で転んで、それでも走り切って、ゴールしてから泣いていた。
俺は、そいつのことを、覚えている。
――向こうは、俺を覚えていない。
三年前、俺の存在値がゼロになった時、沢井も、他の全員も、俺を忘れた。
でも、今回は違う。
沢井は今、**陸上部の三年間を、丸ごと**忘れている。
俺のことだけじゃない。自分のことも。
◇
「――知り合いですか」
ヰナが、聞いた。
「中学の同級生だ」
「ご記憶が」
「ある。……向こうにはないけどな」
俺は、名簿を置いた。
「なあ、ヰナ。おかしくないか」
「何がですか」
「こいつ、陸上部の三年間を抜かれてる」
俺は、名簿を指した。
「沢井は、毎朝五時に起きてた。三年間、一日も休まずに」
俺は、拳を握った。
「その三年ぶんが、丸ごと抜けたってことだろ」
「はい」
「――今、どうしてる」
「高校でも、陸上部に所属しています」
ヰナは、資料をめくった。
「ですが、先月から、練習に来ていません」
◇
その日の放課後、俺は沢井の家に行った。
ヰナは止めなかった。ただ、後ろからついてきた。
インターホンを押した。
出てきたのは、本人だった。
「――どちら様?」
「灰島だ。中学の同級生」
「灰島……」
あいつは、俺の顔を、じっと見た。
――一拍。
「――ごめん、思い出せない」
「いいよ。あんまり喋ってなかったし」
嘘だ。
三年の秋、俺は毎朝、通学路で沢井とすれ違っていた。あいつは朝練帰りで、俺は普通の登校で、毎日「おはよう」だけ言い合っていた。
三年間、それだけの関係だった。
でも、三年間、毎日やった。
◇
「陸上、辞めるって聞いた」
俺が言うと、沢井の肩が跳ねた。
「……なんで、それ」
「なんとなく」
「――辞めるっていうか」
あいつは、玄関の三和土を見た。
「わたし、なんで走ってたのか、わかんないんだよね」
声が、平坦だった。
「記録は残ってるの。表彰状も、スパイクも、練習日誌も。……全部、わたしの字なの」
彼女は、顔を上げた。
「なのに、書いた記憶がないの」
「……」
「三年間だよ? 毎朝五時起き。日誌には『きつい』って毎日書いてある。……なんで、そんなことしたんだろ」
彼女は、笑った。
笑い方が、ひどく、空っぽだった。
「わたし、走るの、好きだったのかな」
◇
俺は、その場に立ち尽くしていた。
――言えば、いい。
好きだったよ、と。県大会の予選で転んで、それでも走り切って、ゴールで泣いてただろ、と。
毎朝すれ違うたび、お前は必ず「おはよう」って言った。俺みたいな、誰とも喋らない奴にも、三年間、毎日。
言えば、いい。
――でも。
「――灰島さん」
ヰナが、俺の袖を引いた。
小さく、首を振った。
俺は、口を閉じた。
◇
帰り道、俺はヰナに聞いた。
「なんで、止めた」
「灰島さんの証言は、記録になりません」
彼女は、前を向いたまま言った。
「あなたが『沢井さんは走るのが好きだった』と言っても、彼女には、それを確かめる手段がない。……そして、あなたは、彼女にとって『思い出せない同級生』です」
「――だから?」
「思い出せない人間の言うことを、人は信じません」
彼女は、足を止めた。
「信じられないまま『そうだったらしい』とだけ聞かされるのは、抜けているより、つらいことがあります」
俺は、返す言葉がなかった。
「……じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「――取り返すしか、ありません」
ヰナは、俺を見た。
「抜かれた記憶を、抜いた相手から」
◇
その夜、俺は七冊目のノートを開いた。
新しいページに、線を引いて、名前を書いた。
『沢井ミチル 中三 陸上長距離 毎朝五時起き 県予選で転んで泣いた』
書いてから、俺は、ペンを止めた。
――これは、意味があるのか。
俺が覚えていても、本人が思い出せないなら。
一年前、俺は同じことを考えた。
俺の名前を覚えている人間が世界に一人もいなくなった時、俺は、まだ俺なのか、と。
あの時の答えを、俺はもう出している。
――俺は、俺だった。
誰も覚えていなくても、俺は毎日、飯を食って、学校に行って、ノートを書いていた。
だから。
俺は、ペンを走らせた。
沢井の名前の下に、もう一行。
『覚えてる奴が、一人はいる』




