第34話 思い出せない街
異変が始まったのは、十月の下旬だった。
最初は、些細なニュースだった。
『駅前交差点で高齢男性が立ち往生 「行き先を忘れた」と』
次の週、似た話が三件。
『主婦が自宅前で二時間立ち尽くす 「鍵の開け方がわからなくなった」』
『会社員が終電後の駅で保護 「自分の降りる駅を思い出せない」』
どれも、事件になっていない。
誰も死んでいないし、誰も怪我をしていない。
――ただ、抜けているだけだ。
◇
「――九位でも八位でもありません」
支部の会議で、ヰナが言った。
ホワイトボードに、被害の地図が貼ってある。赤い点が、十七個。
「存在喰いなら、被害者の存在値が落ちます。ですが、この十七人、全員」
彼女は、数値の表を指した。
「――存在値は、正常です」
佐倉さんが、腕を組んだ。
「じゃあ、蒐じゃないんじゃないか」
「私も、最初はそう思いました」
ヰナは、次の資料を出した。
「ですが、被害者の一人に会ってきました。……七十四歳の男性です」
彼女は、少しだけ、目を伏せた。
「その人は、自分の名前も、家族の顔も、覚えていました。認知機能に、異常はありません」
「じゃあ何を忘れたんだ」
「――昨日の朝、味噌汁を飲んだかどうか、を」
会議室が、静かになった。
「他にも、いくつか。三年前の正月に誰と過ごしたか。娘の結婚式で流れた曲。……本人が『たしかにあったはずなのに、中身が空っぽだ』と言っていました」
ヰナは、資料を置いた。
「これは、存在ではありません」
彼女は、はっきり言った。
「――記憶だけが、抜かれています」
◇
「――七位だな」
九条支部長が、そう言った。
会議室のドアに寄りかかって、いつからそこにいたのかわからない立ち方で。
「支部長。ご存じなんですか」
「知っている」
彼女は、机に一枚の書類を放った。
古い書類だった。紙が黄ばんでいる。
『七位「憶」観測記録 昭和六十一年』
「四十年前に、一度、観測されている」
九条支部長は、椅子に座った。
「当時の第七支部は、討伐隊を出した。……九人で行って、二人帰ってきた」
佐倉さんが、息を呑んだ。
「二人?」
「そのうち一人も、三日後に、自分が誰か答えられなくなった」
彼女は、コーヒーに口をつけた。冷めているやつだ。この人のコーヒーは、いつも冷めている。
「その後、七位は姿を消した。四十年、記録なし。……そして、今月から、これだ」
彼女は、赤い点の地図を見た。
「――帰ってきたわけだ」
◇
「討伐は」
ヰナが、聞いた。
「出さん」
九条支部長は、即答した。
「なぜですか」
「死人が出ていないからだ」
彼女は、書類を畳んだ。
「灯守の出動基準は『存在値の減少』だ。今回、被害者の存在値は正常。誰も消えていない。誰も死んでいない。……つまり、書式上、これは事件ではない」
「――記憶が抜かれています!」
「知っている」
「では――」
「白羽」
支部長は、ヰナを見た。
「四十年前、九人出して七人失った相手だ。今、この支部に討伐者は何人いる」
「……五人です」
「五人で、何人失う?」
ヰナは、答えられなかった。
「私は、書式のために出動を止めているんじゃない」
九条支部長は、立ち上がった。
「――部下を、五人とも失いたくないだけだ」
◇
会議のあと、俺はヰナと一緒に、地図を見ていた。
赤い点、十七個。
俺は、その配置を眺めていた。
「……ヰナ」
「はい」
「これ、四角い」
「え?」
「十七個の点。……外側の点を結ぶと、四角になる」
俺は、指でなぞった。
北の点、東の点、南の点、西の点。それを結ぶと、街の一区画を囲む、歪んだ四角形になった。
ヰナが、身を乗り出した。
「――本当だ」
「で、その真ん中が」
俺は、四角形の中心を指した。
地図上、そこには、一つの建物があった。
『市立中央図書館(閉鎖中)』




