第33話 書式の人
白羽ヰナの教育は、地獄だった。
バトルの話ではない。
書類の話だ。
「灰島さん。ここ、消してください」
「なんで」
「『喰った』は、報告書では『捕食による無力化』と書きます」
「同じだろ」
「同じですが、様式です」
「あんた、様式好きだな」
「好きではありません。必要です」
彼女は、赤ペンで、俺の報告書に丸をつけた。三十七か所目だった。
「――なんで、こんなに厳しいんだよ」
俺は、机に突っ伏した。
「三体喰っただけだぞ。四枚も書かせて、しかも三回突き返して」
「灰島さん」
ヰナが、赤ペンを置いた。
「灯守の書類は、なぜあると思いますか」
「知らねえよ。役所の趣味だろ」
「――記録するためです」
彼女は、俺を見た。
「蒐に喰われた人間は、記録から消えます。名簿からも、戸籍からも、家族の記憶からも」
俺は、顔を上げた。
「ですが、灯守の報告書だけは、消えません」
彼女は、書類の束を、机に置いた。
「討伐者が、その場で見たものを、その場で書く。喰われた人の名前を、状況を、時刻を。……本人が消えても、書式が残ります」
支部の中が、静かだった。
「灯守の書類は、八十年分あります」
彼女は、静かに言った。
「地下の書庫に、全部保管されています。……そこには、もう誰も覚えていない人の名前が、何千と書いてあります」
◇
俺は、その日、書庫に降りた。
ヰナが、鍵を開けてくれた。
地下の書庫は、寒かった。天井まで届く棚が、二十列。全部、紙の箱で埋まっていた。
俺は、適当な箱を一つ、開けた。
中の報告書は、昭和の日付だった。
『昭和五十二年七月九日 於・市立第三中学校裏 被害者:滝沢イサム(十四) 状況:下校中、八位と接触。存在値〇。捜索打ち切り』
俺は、その一行を、指でなぞった。
――滝沢イサム。
四十年以上前に、この街のどこかで、誰にも覚えられなくなった中学生がいた。
誰も、その顔を知らない。家族も、友達も。
でも、この紙が、ある。
「……ヰナ」
「はい」
「この人、どうなったんだ」
「わかりません」
彼女は、隣の棚を見ていた。
「捜索打ち切り、と書いてあります。……当時の灯守には、存在値ゼロの人間を追跡する手段がありませんでした」
「今は?」
「今も、ありません」
彼女は、俺を見た。
「――あなたを除いて」
◇
俺は、その箱を、しばらく見ていた。
「なあ、ヰナ」
「はい」
「俺の存在値が、〇・〇だった三年間」
「はい」
「灯守は、俺のこと、書いてたか」
彼女の動きが、止まった。
「――書いていません」
「なんで」
「観測できなかったからです」
彼女は、俯いた。
「灯守は、存在値を測る器械で、蒐と被害者を追います。……ですが、あなたのように、ゼロまで落ちきって、それでも生きている人間は、器械に映りません」
「じゃあ、なんであんたは俺を」
「――私が、特異体質だからです」
彼女は、顔を上げた。
「私は、存在値ゼロを、目で視認できます。灯守で唯一です」
俺は、その言葉を、頭の中で二回、繰り返した。
「……つまり」
「はい」
「俺を見つけたのは、灯守じゃなくて」
「私です」
彼女は、はっきり言った。
「三週間前、駅前の交差点で。……人の流れが、あなたの立っている場所だけ、割れていました」
◇
「――あの時のこと、覚えてるか」
「覚えています」
「俺、なんて言った」
ヰナは、少し考えた。
「――『見えてんのか』と」
「そうだった」
「私は『見えます』と答えました」
「――そのあと」
彼女は、目を伏せた。
「あなたは、三十秒ほど、何も言いませんでした」
「……ああ」
「それから、こう言いました」
彼女の声が、少しだけ、揺れた。
「――『じゃあ、俺の名前、呼んでみてくれよ』」
◇
地下書庫は、寒かった。
紙の匂いがした。八十年分の、消えた人たちの名前の匂いだった。
「ヰナ」
「はい」
「あの時、あんた、俺の名前、知らなかったよな」
「知りませんでした」
「なのに、呼べって言われて」
「はい」
「――どうした?」
彼女は、俺を見た。
そして、あの日と同じように、まっすぐに言った。
「『お名前を、教えてください』と」




