第32話 手が勝手に
その夜、俺は家の網戸から部屋に上がった。
俺の家だ。
灰島家。父と母と、妹のユメと、俺。四人家族。
――今は、三人家族ということになっている。
俺は、物置部屋のベッドに座って、下の物音を聞いていた。
夕飯の時間だ。
母さんが台所で何かを炒めている音。テレビの音。ユメが「お母さん、醤油」と言う声。
――俺は、下には降りない。
降りても、意味がないからだ。
三週間前、一度だけ試した。ダイニングに立って、五分、そこにいた。誰も俺を見なかった。母さんは俺の立っている場所を通り抜けようとして、なぜか一歩ずれて避けて、そのことに自分で気づかなかった。
あれ以来、俺は降りていない。
◇
その夜は、様子が違った。
台所から、母さんの声がした。
「……あら?」
俺は、顔を上げた。
「なにー?」
「んー、なんでもない」
少しの間。
「ねえユメ、お母さん、今、お皿四枚出したのよ」
俺の心臓が、跳ねた。
「え? 三人じゃん」
「そうなのよ。なのに、なんでかしら。四枚目、手が勝手に」
「疲れてんじゃない?」
「そうかもねえ」
母さんは、笑った。
カチャ、と、皿を一枚、戻す音がした。
◇
俺は、階段の上に座っていた。
いつの間にか、部屋を出ていた。
――手が、勝手に。
母さんは、そう言った。
俺の顔は、思い出していない。名前も、たぶん出てこない。俺の部屋の存在も、あの人の中では「物置」のままだ。
でも。
手が、四枚目を、取った。
ノートを、出した。
七冊目の、真新しいやつ。
俺は、階段の上で、ペンを走らせた。
『十月十四日 母、皿を四枚出す。理由は本人にもわからない』
書いてから、しばらく、その行を見ていた。
――一行だ。
たった一行。
でも、三週間前、俺のノートは、失ったものだけを書くページだった。
今は、戻ってきたものを書くページが、ある。
◇
翌朝、支部で、ヰナにその話をした。
彼女は、俺のノートを見て、それから、ボードのほうを見た。
「――存在値が、三を超えたからです」
「関係あんのか」
「あります」
彼女は、ホワイトボードのマーカーを取った。
「存在値には、閾値があります。〇から一は、完全な不在。一から三は、痕跡のみ。三から十は――」
彼女は、数字を書いた。
「『無意識に影響する』段階です」
「無意識」
「はい」
彼女は、俺を見た。
「本人が意識できる範囲では、まだ思い出しません。ですが、体が覚えています。……皿を四枚出す。椅子を四脚出す。三人分の茶碗を洗ったあとに、なぜか流しをもう一度見る」
俺は、ノートを閉じた。
「――十を超えたら?」
「夢に出ます」
ヰナは、言った。
「十から三十は、『夢と既視感』の段階です。眠っている間に、その人の顔を見ます。……起きたら、忘れますが」
「三十からは」
「名前が出ます」
彼女は、淡々と続けた。
「『あれ、そういえば、こういう名前の人がいた気がする』。……ここまで来ると、周囲の人間が、あなたについて話し始めます」
「それで、百は」
「――完全な回復です」
彼女は、マーカーを置いた。
「ただし、灯守の記録上、〇から百まで戻った例は、一件もありません」
◇
「――ないのか」
「ありません」
ヰナは、あっさり言った。
「灯守は八十年、存在喰いを追っています。その間、存在値がゼロまで落ちた人間は、二百三十七人確認されています」
「二百三十七」
「そのうち、生存が確認されたのは」
彼女は、指を一本立てた。
「――あなた、一人です」
俺は、言葉を失った。
「他の二百三十六人は、どうなった」
「わかりません」
「わからない?」
「ゼロになった人間は、灯守の記録からも消えます」
ヰナは、目を伏せた。
「二百三十六という数字は、『欄が空いている数』を数えたものです。……誰だったのかは、誰も知りません」
◇
その日、俺は初任務に出た。
九位の残党狩り。ヰナの言葉を借りれば「新人研修」。
俺は、影渡りで路地裏に潜って、九位を三体、喰った。
喰うのは、慣れた。
――問題は、その後だ。
「灰島さん。報告書です」
「書くのか、これ」
「書きます」
「三行でよくないか」
「様式があります」
彼女が差し出した用紙は、四枚あった。
「……多くね?」
「討伐者の基本業務は、書類です」
ヰナは、真顔で言った。
「蒐を斃すのは、その次です」




