第30話 推薦
三日後、俺は第七支部の支部長室にいた。
机の上には、書類が一枚だけ置かれていた。
『討伐者資格 推薦状 / 推薦者:白羽ヰナ / 被推薦者:灰島トワ』
俺は、それを二度読んだ。
「……なんだこれ」
「推薦状です」
ヰナが、机の横に立っていた。背筋を伸ばして、右手を体の脇にぴたりとつけて。
「灯守の討伐者は、既存の討伐者一名の推薦により、支部長審査を受けられます」
「いや、意味は分かる。なんで出したのかって聞いてんだよ」
「必要だからです」
彼女は、まっすぐ前を向いたまま言った。
「灰島さんは今、存在値三・一です。……もう、『協力者』の枠には収まりません」
◇
九条支部長は、椅子にもたれて、天井を見ていた。
机の上のコーヒーは、今日も三杯とも冷めていた。
「白羽」
「はい」
「これを出すということが、何を意味するか、わかっているか」
「はい」
「言ってみろ」
ヰナは、少しだけ目を伏せた。
「……灰島さんが、灯守の名簿に載ります」
「そうだ」
支部長は、指で机を叩いた。
「載れば、記録に残る。訓練記録も、出動記録も、負傷記録も。……そして、殉職記録も」
◇
部屋が、静かになった。
「白羽。君は先月、私に言ったな。灰島トワは制度の外側にいる、だから守られない、と」
「はい」
「今度は逆だ。名簿に載れば、彼は組織の駒になる。命令を受ける。危険な現場に、書式上の正当性を持って投入される。……つまり私は、彼を合法的に使い潰せるようになる」
支部長は、俺を見た。
「それでもいいのか、灰島くん」
◇
俺は、推薦状を持ち上げた。
薄い紙だった。
名前が、印字されていた。
灰島トワ、と。
「支部長」
「なんだ」
「俺、三週間前まで、この世界に一行も残ってなかったんです」
俺は言った。
「学校の名簿にも、戸籍にも、家族の記憶にも。……アルバムに写ってた俺の顔だけ、ぽっかり誰も写ってない構図になってて。それ見た時に、思ったんですよ」
俺は、紙の端を指でなぞった。
「一行でいい。どこか一箇所でいいから、俺のことが書いてある紙が、この世にあってくれって」
◇
「使い潰されるかもしれないぞ」
「かもですね」
「殉職すれば、記録は消える。灯守の死者は、喰われた瞬間に書式から消える。……つまり、この紙も消える」
「知ってます」
俺は、笑った。
「でも、消える紙でも、あるうちは、あるんで」
◇
支部長は、しばらく俺を見ていた。
それから、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「……君たちは、本当に、私の胃に悪い」
彼女はペンを取って、推薦状の下部に、判を押した。
こん、と乾いた音がした。
「第七支部、討伐者見習い。灰島トワ。……初任務は、追って通達する」
「はい」
「白羽ヰナ。彼の教育担当を命じる」
「――は、はい!」
ヰナの声が、裏返った。
真顔のまま裏返っていた。
◇
支部長室を出ると、廊下の窓から朝日が差していた。
「灰島さん」
ヰナが、隣に並んだ。
「教育担当として、最初に言っておきます」
「なんだよ」
「私の言うことを聞いてください」
「聞くよ」
「聞きません、あなたは」
「聞くって」
「先週、餌になると言った私を止めておきながら、自分が針になりました」
「それは……まあ」
「五秒で終わらせると言って、駐車場を一棟壊しました」
「あれは向こうが壊した」
「報告書には『被推薦者の判断により、構造物一棟が全損』と書きました」
「書くなよそれ!」
ヰナは、口の端を、ほんの少しだけ上げた。
この女が笑うのを見るのは、二度目だった。
◇
その日の夜。
俺は家の網戸から、いつも通り部屋に上がった。
物置部屋は、また変わっていた。
段ボールが、部屋の隅に寄せられていた。ベッドの横に、小さな机が置かれていた。母さんが物入れに使っていた、古い学習机だ。
その上に、ペン立てがあった。
中に、シャーペンが一本。
俺のだった。
三年前に使っていた、キャップの割れたやつ。
――誰も、思い出していない。
母さんは今も、俺の顔を知らない。ユメは俺を夢の中でしか見ていない。
でも、この家は、少しずつ、俺の形に戻ってきている。
俺は、その机に、七冊目のノートを置いた。
「……ただいま」
誰も、返事をしなかった。
それでも、俺は言った。
◇
――同じ夜。
街から二百キロ離れた、廃線になった駅のホーム。
誰も来ない場所に、少年が一人、座っていた。
膝の上に、鳥が一羽止まっている。鳥は少年を認識していない。ただ、そこに何もないと思って止まっているだけだ。
少年の存在値は、ゼロだった。
彼の隣に、外套のような影が立った。
「――逃げられたか」
少年が言った。声変わりの終わりかけた、十七歳の声。
影は、答えなかった。
「まあいいさ。あんたの尖兵が一人減っただけだろ」
少年は、鳥を指で撫でようとして、やめた。
触れたら、飛んでいってしまうからだ。
「僕と同じのが、もう一人いるってことは」
彼は、街の方角を見た。
二百キロ先の、名前も知らない街の方を。
「……その子は、まだ、こっち側に来てないってことだ」
少年は、立ち上がった。
「紅島ジンです」
彼は、誰にともなく名乗った。
「よろしく、四十九人目を書いた人」
◇
朝が来る。
俺は、七冊目のノートを開いて、余白の一番上に、新しい行を引いた。
まだ、書くことは決まっていない。
でも、書くことになるのは、わかっている。
――次は、七位本体だ。
◇




