第29話 懐かしい声
真下から、喰らいついた。
◇
四十七本の腕が、影の底から噴き上がった。
一本ずつが、怪物の腹を掴み、裂き、押し広げる。
俺は、その裂け目に頭から突っ込んだ。
――熱が、来た。
八位の時が洪水なら、これは、決壊だった。
三百二十七人。
喉から、胸から、腹から、記憶が奔流になって流れ込んでくる。
誕生日。葬式。初出勤。転校の朝。片思い。喧嘩別れ。仲直り。二度目の喧嘩。子どもの寝顔。実家の匂い。病室の窓。
人が三百二十七人ぶん生きた分の全部が、一度に俺の中に入ってきて。
◇
――重い。
重すぎる。
俺の器は〇・四だ。三百二十七人を入れる大きさがない。
入りきらないものが、体の外へ漏れ出す。指の先から、目の奥から、こぼれていく。
意識が、遠のく。
「灰島さん!!」
遠くで、声。
「〇〇一!!」
◇
ヰナの声だった。
「〇〇一! 川しげの肝吸いを、二人前しか頼まなかった人!」
彼女は、ノートを読んでいた。
崩れる駐車場の三階で、瓦礫の中に膝をついて、ありったけの声で。
「〇〇二! 息子の運動会に、六年連続で行けなかった人!」
――ああ。
そうか。
◇
器が足りないなら、置き場所を作ればいい。
俺は、頭の中で、六冊のノートを開いた。
〇〇一の欄。〇〇二の欄。〇〇三の欄。
一行ずつ書いた、あの空欄だらけのページを。
流れ込んでくる三百二十七人を、俺は、片っ端から、そこへ振り分けた。
名前は要らない。
一行でいい。
――〇四八。手術の前の日に、看護師さんに紙飛行機の折り方を教えた人。
――〇五〇。三十年、同じ喫茶店の同じ席に座り続けた人。
――〇五一。娘に「ごめん」と言えないまま、財布に写真だけ入れていた人。
書け。
書け。書け書け書け。
◇
どれくらい経ったのか、わからない。
気がつくと、俺は、崩れた駐車場の床に、仰向けに倒れていた。
空が見えた。
天井が丸ごと吹き飛んでいて、その向こうに、夜明け前の空があった。
黒い霧が、渦を巻いて、俺の中に沈んでいく最中だった。
「……終わっ、た?」
「終わりました」
顔の横に、ヰナが座り込んでいた。
鼻血を出していた。泣いてもいた。ノートを胸に抱えていた。
「存在値」
彼女は、端末を見た。
見て、手が震えた。
「……三・一」
「……は?」
「〇・四から、三・一です」
彼女は、端末を落とした。
「一を、超えました」
◇
一。
その数字の意味を、俺は、しばらく理解できなかった。
存在値一は、「普通の人間」の値だ。
この街を歩いている、名前があって、席があって、記録がある人間の、標準の値。
「……俺、いま」
「はい」
「普通の人間の、三倍いるってことか?」
「そういう計算ではありませんが」
ヰナは、涙と鼻血でぐちゃぐちゃの顔で、それでも真顔で言った。
「そういう計算です」
◇
俺は、笑った。
笑ったら、体中が痛くて、また倒れた。
「……ヰナ」
「はい」
「一個、確かめたいことがある」
俺は、ポケットからスマホを出した。
三週間、一度も鳴らなかった、俺のスマホを。
電話帳を開く。
母さんの番号は、まだそこにある。俺の端末の中だけには、ずっと。
――押した。
◇
三回、コール音が鳴った。
『……もしもし?』
母さんの声だった。
俺は、息を吸った。
「……あ、あの」
『はい?』
「……」
『もしもし? どちらさま』
――知らない声だった。
いや、母さんの声は知っている。
母さんにとって、俺の声が、知らない声だった。
◇
でも。
『……あら?』
母さんが、言った。
『ごめんなさい、どこかで……あの、失礼ですけど、以前どこかで、お会いしました?』
◇
俺は、口を押さえた。
声が出そうだったから。
三週間で初めて、母さんが、俺に「あなたは誰か」を尋ねた。
――誰か、と聞いてくれた。
それは、「そこに誰かがいる」と認めたということだ。
「……いえ」
俺は、なんとか声を出した。
「間違えました。すみません」
『そうですか。いえいえ』
母さんは笑った。
『変ねえ。すごく、懐かしい声だったんだけど』
◇
通話を切って、俺は空を見た。
夜明けの色だった。
隣で、ヰナが、ノートを開いて、ペンを構えていた。
「灰島さん」
「……なんだよ」
「四十九人目を、書きます」
彼女は言った。
「あなたが、書けない状態のようなので」
「……悪い」
「〇四九」
ヰナは、ペンを走らせた。
「『三日歩き回って、四日目に諦めた人。三年間、誰にも名前を呼ばれなかった人。……最後に、ちゃんと、書いといてと言った人』」
◇
俺は、目を閉じた。
俺の中で、三百二十七人が、静かになった。
その中に、一人分の、細身の少年がいるのがわかった。
顔は、まだ、ない。
でも、番号は、ある。
「……よろしくな、〇四九」
俺は言った。
「うちのノート、まだ余白いっぱいあるから」




