第27話 順番が逆だ
影に沈む寸前、俺は言った。
「覚えてから、喰うんだよ」
◇
影の中は、冷たい水底みたいだった。
崩れた天井の破片が作る影、フェンスの影、瓦礫の影。街灯は死んでいるが、ヰナの投げ捨てた投光器が、まだ床で光っている。
その一本の光が作る影を、俺は泳いだ。
浮上する。
黒い腕を八本、展開する。
怪物の背中に叩き込む。
――効かない。
わかっていた。三百二十七人ぶんの存在で膨れた化け物に、〇・四の腕八本が効くわけがない。
俺は、殴りに行ったんじゃない。
◇
浮上して、殴って、また潜る。
その一往復ごとに、俺は一つずつ、言った。
「〇〇一。川しげの肝吸いを、二人前しか頼まなかった人」
潜る。浮上する。
「〇〇二。息子の運動会に、六年連続で行けなかった人」
潜る。浮上する。
「〇〇三。飼っていた金魚に、全部『しろ』って名前をつけた人」
◇
「――なんの、つもりだ」
怪物が、腕を薙いだ。
俺は影に潜って避けた。
三百二十七人ぶんの体を持つそいつは、俺の八本の腕なんて痛くも痒くもない。
でも、俺が一つ喋るたびに、そいつの動きが、一拍、遅れた。
「〇〇四。定食屋で、必ず味噌汁だけ先に飲み干した人」
「――黙れ」
「〇〇五。娘の結婚式のスピーチを、三ヶ月前から練習してた人」
「黙れ!!」
◇
ヰナが、階下から残灯を拾って戻ってきていた。
彼女は、床に膝をついたまま、ノートを開いていた。
そして、俺の声に合わせて、読み上げ始めた。
「〇〇六。雨の日だけ、遠回りして帰った人」
二人になった。
「〇〇七。コンビニの店員に、必ず『ありがとう』と言った人」
「〇〇八。四十歳から、ギターを習い始めた人」
◇
俺たちは、殴り合っていなかった。
読み上げていた。
六冊のノートに書いた、四十七人ぶんの一行を、順番に。
馬鹿げていた。
どう考えても、戦闘行為じゃない。灯守の教本のどこにも載っていないだろう。
でも。
――怪物が、後ずさっていた。
◇
「なんで」
そいつの声が、掠れていた。
「なんで、そんなに、出てくるんだ」
「書いたからだよ」
俺は、影から浮上して言った。
「書いたら、出てくる。書かなかったら、出てこない。……それだけだ」
「僕は覚えてた!」
「覚えてただけだろ」
俺は言った。
「覚えてるってのはな、風呂に水を張るのと同じだ。栓をしとかないと、勝手に抜ける」
「――!」
「ヰナの姉ちゃんも、そうやって抜けた。十年かけて、少しずつ。……あいつのせいじゃない。人間はそういう風にできてるんだ」
俺は、八本の腕を構え直した。
「だから書くんだよ。栓の代わりに」
◇
「〇一九。seldomを三回忘れて、三回目で覚えた受験生」
俺は言った。
「〇一九には、続きがある」
怪物の、三百二十七の口が、黙った。
「単語帳の最後のページに、鉛筆で書いてあった。『これ覚えたら焼肉』」
◇
その瞬間だった。
怪物の体の、どこかから。
――ぼろりと、何かが落ちた。
肉の塊みたいなものが、床に落ちて、灰になって、消えた。
「……あ」
そいつが、自分の体を見下ろした。
「なに、いま」
「抜けたんだよ」
俺は言った。
「お前の中の一人が、お前より、俺の方を選んだ」
◇
落ちた。
もう一つ、落ちた。
三つ、四つ、五つ。
怪物の体を構成していた「誰かの部品」が、順番に剥がれ落ちていく。
「やめろ、やめろ!」
そいつは、自分の体を掻き抱いた。
「僕のだ! 僕が喰ったんだ! 僕のものだ!」
「違うだろ」
俺は言った。
「そいつら、お前のものになったことは、一度もねえよ」
◇
俺は、影から出て、床に立った。
もう潜らなかった。
真正面から、そいつを見た。
「なあ、〇四九」
「…………」
「お前が三日歩き回った時さ」
俺は言った。
「誰か一人でも、お前を見てくれてたら、お前、こっち側にいたか?」
◇
怪物が、動きを止めた。
三百二十七の口が、いっせいに、閉じた。
「……いたよ」
小さい声だった。
顔のない顔が、うつむいた。
「いたに、決まってる」
「そうか」
俺は言った。
「悪かったな」
「なんで、君が謝るんだよ」
「三年前、俺はまだ喰われてなかった。ふつうに学校行って、ふつうに飯食ってた」
俺は言った。
「お前が三日歩いてた街に、俺もいたんだ。……見なかった側の一人だよ、俺も」
◇
怪物は、何も言わなかった。
膨れ上がった体が、少しずつ、しぼんでいく。
落ちる。落ちる。剥がれる。
やがて、そこには、細身の人型が一つ、残った。
最初と同じ、学生服みたいなものを着た、顔のない少年。
「……ねえ」
そいつが言った。
「君、僕を喰うんでしょ」
「ああ」
俺は言った。
「喰う」




