第26話 三百二十七の空欄
「――うるさい」
胸から、手が抜けた。
俺は床に落ちて、そのまま膝をついた。血は出ていない。存在は、血を流さない。ただ、体の芯が寒かった。
「うるさい、うるさい、うるさい!」
顔のない怪物が、後ずさった。
両手で、自分の顔のない顔を掴んだ。
「覚えてる! 僕は覚えてる! 三百二十七人、全員、ここにいる!」
「じゃあ、二人目は」
「――!」
「三人目は。十人目は。百人目は」
俺は、床に手をついて、立ち上がった。
「番号でもいい。特徴でもいい。一行でいいんだ。一行でいいから、言ってみろよ」
◇
そいつは、答えなかった。
答えられなかった。
代わりに、駐車場の床が、割れた。
◇
衝撃波だった。
俺は吹き飛ばされて、フェンスに叩きつけられた。ヰナも転がった。彼女の手から残灯が滑って、階下へ落ちていった。
顔のない怪物の輪郭が、膨らんでいた。
人型が、崩れていく。
背中から、腕が。腹から、口が。肩から、目が。
――喰った三百二十七人の、体の部品が、めちゃくちゃな配置で噴き出していた。
顔は、まだ、ない。
「僕は、忘れてない」
そいつの声が、いくつも重なって聞こえた。
「忘れてない。忘れてない。忘れてない」
「灰島さん!」
ヰナが叫んだ。
「観測値、上昇しています! あれ――位階が、上がってます!」
◇
俺は、フェンスにもたれて、それを見上げた。
七位の尖兵。
三年前に喰われた、名前も顔も残らなかった誰か。
部屋を物置にされて、母親に素通りされて、三日歩き回って、四日目に諦めた誰か。
――俺の三週間前だ。
俺があの時、ヰナに会えていなかったら。
母さんが皿を一枚多く出すのを見られなかったら。
俺は、あそこに立っていた。
◇
「ヰナ」
俺は、フェンスに手をかけて立ち上がった。
「はい」
「ノート、持ってるか」
「――は?」
「七冊目。渡しただろ、支部で」
ヰナは、一瞬呆けて、それから、鞄を漁った。
「あります」
「ペンも」
「あります」
「よし」
俺は、口の端を持ち上げた。
「書け」
◇
「――なに、を」
「あいつの話を、書け」
俺は、崩れていく怪物を指した。
「三年前、帰り道で喰われた。母親に素通りされた。部屋が物置になってた。妹がいた。三日歩いて、四日目に諦めた。……全部、さっき本人が喋った」
ヰナの目が、見開かれた。
「灰島さん、あれは、存在喰いです」
「元は人間だ」
「……!」
「〇四九」
俺は言った。
「番号は〇四九だ。俺のノートの、四十九人目」
◇
怪物の動きが、止まった。
膨れ上がった体の、あちこちにある口が、いっせいに黙った。
「…………なに」
「聞こえなかったか」
俺は、もう一度言った。
「〇四九。『三日歩き回って、四日目に諦めた人』。……これでいいか」
「――やめろ」
声が、震えていた。
「やめろ。やめろやめろやめろ! 僕は喰う側だ! 書かれる側じゃない! 忘れられる側じゃない!」
「知ってる」
俺は言った。
「お前は喰う側だ。三百二十七人喰った。それは事実だ。書く」
「――!」
「両方書く。喰われた側だったことも、喰う側になったことも、両方だ」
◇
ヰナが、床に膝をついて、ノートを開いた。
ペンが走る音がした。
こんな状況で、この女は、本当に書いていた。
「灰島さん。……あと」
彼女は、書きながら言った。
「〇四九の欄に、書き足すことがあります」
「なんだ」
「『三年間、誰にも名前を呼ばれなかった人』」
◇
怪物が、悲鳴を上げた。
三百二十七の口が、いっせいに。
駐車場のコンクリートが震え、フェンスが軋み、天井が落ちてきた。
俺は、その音の中で、ゆっくりと右腕を持ち上げた。
黒い紋様が、また熱を持ち始めていた。
――八本しか出ない。
それでいい。
俺は、笑った。
「なあ、〇四九」
俺は言った。
「お前の言ってたこと、一個だけ、当たってたよ」
「…………」
「『喰えば喰うほど、自分の中に人が増える』ってやつ」
俺は、崩れた影の中に、片足を沈めた。
「あれ、合ってる。……ただし、順番が逆だ」




