第25話 一人目の名前
投光器の光が、駐車場の三階を照らした。
柱が、瓦礫が、フェンスが、いっせいに影を吐いた。
――影が、戻った。
俺は、迷わず、足元の影に潜った。
水に飛び込むみたいに沈んで、床下の暗がりを泳ぐ。冷たい。音が歪む。この感覚には、もう慣れた。
浮上先は、ヰナの足元だ。
◇
浮上した瞬間、彼女の腕を掴んだ。
「言っただろ! 振り返るなって!」
「言われました」
「じゃあなんで戻ってきた!」
「五秒経ったら逃げろ、とは言われました」
ヰナは、投光器を掲げたまま言った。
「逃げた先で何をするかは、言われていません」
「屁理屈だろそれ!」
「屁理屈です」
真顔だった。
こいつはいつも真顔で、こういう時だけ、致命的に頑固だった。
◇
「感動的だね」
怪物の声が、駐車場に響いた。
顔のない男は、まだ十メートル向こうに立っていた。動いていない。
「君のこと、覚えててくれる人がいるんだ。……いいなあ」
その声には、皮肉がなかった。
本当に、羨ましそうだった。
「僕にはいなかった。三日歩き回って、一人も」
「……」
「だから、あの子から先に喰うね」
◇
消えた。
俺の目には、そう見えた。
次の瞬間には、そいつはヰナの一歩前にいた。
顔のない顔が、彼女を覗き込んでいた。
――間に合わない。
いや。
――間に合わせる。
◇
俺は、右腕を前に出した。
紋様が、焼けるように熱くなった。
展開に十秒かかる、と俺は思っていた。
実際は、二秒だった。
根拠はない。ただ、体が「今すぐ出せ」と言って、腕が言うことを聞いた。
黒い腕が、俺の背中から噴き出した。
十数本。八位の百本には遠く及ばない。それでも、十数本。
その全部で、俺はヰナの体を包んだ。
◇
衝撃が、来た。
黒い腕が、外側から順に砕けていく。一本、二本、五本、八本。
砕けるたびに、俺の中の何かが引きちぎられる感覚がした。腕は俺の存在値でできている。折れるたびに、俺は減る。
「あ――」
ヰナの声。
最後の二本が砕けて、そいつの手が、俺の胸を貫いた。
◇
痛みは、なかった。
喰われるというのは、痛くない。
三週間前と、同じだった。
冷たい手が体の内側に入ってきて、そこにあるべき何かを、そっと持ち上げていく感じ。
「あ、へえ」
そいつが言った。
「君、まだ〇・四しかないんだ。……ちょっと、しょっぱいな」
「……悪かったな」
俺は、そいつの腕を掴んだ。
「安物で」
◇
「灰島さん!!」
ヰナが叫んだ。
彼女は投光器を投げ捨てて、腰の残灯を抜いた。
銀の光が、駐車場の闇を裂いた。
「――残灯!」
三発。
顔のない男の側頭部に、正確に。
そいつは、うるさそうに首を振っただけだった。
「ああ、これ。灯守の武器だ」
そいつは、俺の胸から手を抜かずに、もう片方の手で、ヰナの手首を掴んだ。
残灯が、床に落ちた。
「知ってる? これ、僕らの『存在』を削る武器なんだよ。……でも僕、削られる存在がもう三百二十七人分あるから。あと何千発いるかな」
◇
俺は、掴んだ腕を離さなかった。
離さないまま、頭を回転させた。
――勝てる要素は、一個もない。
こいつはそう言った。俺もそう思った。
でも。
――本当に、一個もないか?
◇
思い出せ。
俺の中には、四十七人がいる。
三百二十七人には、遠く及ばない。
でも、俺は、その四十七人を、六冊に書いた。
――こいつは?
「三百二十七人、全員覚えてる」と、こいつは言った。
嬉しそうに言った。
じゃあ、なんで。
なんで、こいつには、顔がない?
◇
「なあ」
俺は、口を開いた。
胸を貫かれたまま、変な角度で。
「一個、聞いていいか」
「なに?」
「お前が最初に喰った人間の名前、言ってみろよ」
◇
――そいつの手が、止まった。
◇
「……名前?」
「そう。名前」
俺は言った。
「三百二十七人、全員覚えてるんだろ。じゃあ一人目、誰だった」
「…………」
「言えよ」
「――名前は」
そいつの声が、初めて、揺れた。
「名前は、喰った時に、消えるから」
「じゃあ、顔は」
「顔は」
「言えよ」
◇
沈黙が、駐車場に落ちた。
三階の闇の中で、顔のない怪物が、立ち尽くしていた。
俺の胸から、手が、少しだけ抜けた。
「……覚えてるよ」
そいつは言った。
「覚えてる。全員、覚えてる。ここに、ちゃんといる。三百二十七人、僕の中にいる」
「なら言えって」
「言えるよ。言える。一人目は……一人目は、」
そいつの声が、途切れた。
◇
「――〇〇一」
俺は、言った。
「そいつの番号だ」
「……ばん、ごう?」
「俺が四十七人に振った番号だ。名前が消えるから、番号を振った。番号の横に一行書いた。『川しげの肝吸いを二人前しか頼まなかった人』って」
俺は、掴んだ腕に、力を込めた。
「お前、三百二十七人ぶん、書いたか?」
◇
顔のない顔が、こちらを向いた。
のっぺりとした平面に、何も浮かんでいなかった。
でも、俺にはわかった。
こいつは今、生まれて初めて――怯えていた。
「書いて、ない」
俺は言った。
「覚えてるって言い張っただけだ。三年間、一行も書かなかった。……だからお前、顔がねえんだよ」




