第24話 同じ
闇の中で、そいつは歩いてきた。
目が慣れてくると、輪郭が見えた。
――人型だった。
九位は口だけの化け物だった。八位は腕の塊だった。存在喰いは位階が上がるほど、人の形から遠ざかると聞いていた。
こいつは、逆だった。
背丈は俺と同じくらい。細身。学生服みたいなものを着ている。腕が二本、脚が二本。
顔だけが、なかった。
のっぺりとした、皮膚だけの平面。目も鼻も口もない。
なのに、声がする。
「僕はね、七位の尖兵。名前はない」
そいつは言った。
「あってもいいんだけど、喰われた時に、消えちゃったから」
◇
俺は、フェンスの陰から、そいつを見上げた。
「……喰われた?」
「うん」
顔のない顔が、俺の方を向いた。
「三年前。帰り道でね。君と同じ」
――同じ。
さっきの言葉の意味が、ようやく形になった。
「君、存在値ゼロだよね。僕もそうだった」
そいつは、両手を広げた。
「普通は、ゼロになる前に消える。存在値が残ってるうちに丸ごと喰われるから。……でも、たまーに、いるんだよ。喰われかけて、ゼロで止まる子が」
「……」
「僕と、君だ」
◇
俺は、じりじりと横に動いた。
街灯は死んでいる。影がない。影渡りは使えない。
だが、この階の端まで行けば、非常灯がある。あそこまで持たせれば――
「動かないでよ」
そいつが言った。
瞬間、俺の目の前の柱が、砕けた。
見えなかった。何をされたのかもわからない。ただ、コンクリートの柱が、腰から上を失って、崩れた。
瓦礫が降ってくる。俺は転がって避けた。
「話してるんだから」
顔のない顔が、また俺を向いた。
「僕、三年ぶりに人と話してるんだよ。ちょっとくらい、聞いてくれてもよくない?」
◇
「……なんで、喋れるんだよ」
俺は、瓦礫の陰で言った。
時間を稼ぐためでもあったし、単純に、聞きたかった。
「九位も八位も、喋らなかった」
「あいつらは怪物だからね」
そいつは、あっさり言った。
「僕は人間だったから、喋り方を覚えてる。……ただ、それだけ」
「じゃあ、なんで怪物になった」
「なるでしょ、普通」
そいつの声が、少し高くなった。
初めて、感情らしいものが混じった。
「だって君、わかるでしょ。ゼロになった日のこと」
◇
「家に帰ったら、僕の部屋が物置になってた」
そいつは言った。
俺の心臓が、大きく一つ鳴った。
「母さんに話しかけたら、通り過ぎられた。妹が、僕の椅子に鞄を置いてた。学校の名簿に僕がいなかった。……三日間、僕は家の中を歩き回って、みんなに『いる』って言い続けた」
瓦礫の陰で、俺は動けなかった。
三週間前の自分が、そこで喋っていた。
「四日目に、気づいたんだ」
そいつは続けた。
「誰も、僕を忘れてない。だって、忘れるためには、覚えてなきゃいけないでしょ。……みんな、最初から知らないんだ。忘れられたんじゃない。なかったことになったんだ」
◇
「そこにさ、来たんだよ」
そいつは、両手を広げた。
「七位が」
「……」
「言われた。『喰われる側でいるのは、つらいだろう』って。『喰う側になれば、忘れられない側になれる』って」
顔のない顔が、少しだけ、傾いだ。
「僕、なったよ」
「――なんで」
「なんで?」
そいつは、心底不思議そうな声を出した。
「だって君、他に何がある?」
◇
俺は、答えなかった。
答えられなかったんじゃない。
答えを持っていたけど、それを口に出す前に、こいつを一発殴りたかった。
「同族誤認は、僕には効かないよ」
そいつは言った。
「僕は元・喰われた側だからね。君の『空っぽ』が、僕にはちゃんと見える。……九位や八位が君を素通りするのは、あいつらが馬鹿だからだよ。同族だと思ってるんじゃなくて、単に、何も見えてないだけ」
――違う。
俺の唯一の武器は、そういうことだったのか。
「だから、君の手札は、僕には全部効かない」
そいつは、一歩、踏み出した。
「影渡りは、光を消せば終わり。百の腕は、僕の方が上位だから展開が遅い。……ねえ、君、僕に勝てる要素、一個もないよ」
◇
その通りだった。
俺は、瓦礫の陰で、自分の手札を数えた。
影渡り――使えない。
百の腕――右腕の紋様は、まだ定着していない。展開に十秒かかる。十秒あれば、こいつは俺を三回殺せる。
同族誤認――通じない。
――一個も、ない。
「ねえ」
そいつが、しゃがんで、俺の顔を覗き込んだ。
顔がないのに、覗き込まれているのがわかった。
「一緒に行こうよ」
◇
声が、優しかった。
それが、一番きつかった。
「七位のところに行こう。あの人は、僕らみたいなのを集めてる。……ゼロで止まった子たちを」
「……何人いるんだよ」
「今は、僕を入れて四人。もうすぐ五人」
そいつは言った。
「君で、五人目」
俺は、瓦礫を握った。
指先が切れて、血が出た。血は出るんだな、と場違いなことを考えた。
「そこ行ったら、どうなる」
「忘れられなくなるよ」
そいつは、即答した。
「僕らは記録に残らない。だから、喰った相手の記憶の中にだけ、残る。……喰えば喰うほど、僕の中に人が増える。誰も僕を覚えてくれないなら、僕が全員を覚えればいい」
◇
俺の背筋が、凍った。
こいつの理屈は――
俺の、六冊のノートと、同じ形をしていた。
「……お前」
俺は、掠れた声で言った。
「喰った奴のこと、覚えてるのか」
「もちろん」
そいつは、嬉しそうに言った。
「三百二十七人。全員、覚えてる」
◇
その時。
背後の非常階段の扉が、開いた。
光が、差し込んだ。
「――灰島さん!!」
ヰナが、そこに立っていた。
右手に、非常用の投光器を掲げて。
振り返るな、と言ったのに。
逃げろ、と言ったのに。
この、馬鹿が。
「影を、作りました!」
◇
顔のない怪物が、ゆっくりと、そちらを向いた。
「……あ」
その声が、初めて、嬉しそうに震えた。
「――観測の子だ」




