第23話 餌
「却下だ」
俺は即答した。
「馬鹿かお前。餌になりますって、七位相手にか。八位で腕にヒビ入れた奴が言うことか」
「では、他に方法がありますか」
ヰナは、屋根の上から動かなかった。
「観測をやめれば、七位はこの街で自由に喰えます。灯守は目を潰されたのと同じです。……そして、七位はそのまま、次の観測者を探しに、別の支部へ移動します」
「……」
「私が一ヶ月かけて漏らした情報で、次の街の観測者が死にます」
彼女の声は、平坦だった。
平坦すぎた。こういう時の平坦は、一番危ない。
「灰島さん。あなたは、四十七人を書きました」
「それとこれとは」
「同じです」
ヰナは言った。
「書ける人が、書くしかないように。……釣れる人が、釣るしかないんです」
◇
俺は、窓枠に手をついて、しばらく考えた。
考えて、答えを出した。
「わかった。やろう」
「――え」
「ただし、条件がある」
俺は、屋根に出た。
夜風が冷たかった。街の明かりが、いつも通り、俺を無視して光っていた。
「一つ。場所は俺が選ぶ。二つ、観測は五秒だけ。三つ」
俺は、指を三本立てて、最後の一本を折った。
「――お前は、その五秒が終わったら、走って逃げろ。振り返るな」
「私が餌なのに、逃げたら意味が」
「意味はある」
俺は言った。
「餌ってのは、釣り針の上に載ってるもんだろ。針は俺だ」
◇
場所は、四日かけて選んだ。
条件は三つ。
一つ、街灯が多いこと。俺の影渡りは、影が必要だ。影を作るには、光がいる。
二つ、逃げ道が単純なこと。ヰナが迷わず走れるように。
三つ、人がいないこと。
選んだのは、東側の外れにある、廃業したショッピングモールの駐車場だった。
三階建ての立体駐車場。柱が多い。柱が多いということは、影が多い。街灯は市の管理でまだ生きている。夜は誰も来ない。
「支部長には」
「言わない」
俺は言った。
「言ったら止められる。止められたら、お前は一人でやる。それが一番悪い」
「……はい」
「あと、これ」
俺は、ポケットから折り畳んだ紙を出して、彼女に渡した。
「なんですか、これ」
「遺書」
「――は?」
「冗談だよ。ノートの、続きを書く時のルール。俺が忘れそうなことを書いといた」
ヰナは、紙を握った。
「……返します」
「返すな。持っとけ」
「持ちません。あなたが自分で書いてください」
真顔だった。
俺は笑って、紙を受け取り直した。
◇
決行は、その週の金曜、深夜一時。
立体駐車場の三階、屋上に近い階層で、ヰナは端末を構えた。
俺は、彼女の五メートル後ろの柱の影に、半分体を沈めて待機した。
影渡りは、潜っている間、周囲の音が水中みたいに歪む。だから、合図は目で決めた。
「五秒です」
「行け」
◇
ヰナが、端末の観測モードを起動した。
彼女の周りの空気が、わずかに揺らいだ。
俺には見えない。観測特異体質者だけが視ている世界が、今、この場所に開いている。
一。
二。
三。
四。
――五。
「切ります!」
彼女が端末を落とすように閉じて、駆け出した。
振り返らずに。
いい子だ。
◇
俺は、影の中で息を殺した。
来るなら、今だ。
五秒。たった五秒の光。それを追ってこられるなら、七位は――
◇
街灯が、消えた。
◇
三階の街灯が、端から順に、ぱたぱたと落ちていく。
影が、消える。
――光がなければ、影はない。
影渡りは、光を消されると死ぬ。それを、こいつは知っている。八位を喰った俺の手札を、こいつは知っている。
俺は影から飛び出して、最後の一本が消える前に、フェンスの陰に転がり込んだ。
闇。
完全な、闇。
◇
その闇の中で、足音がした。
――足音。
九位も八位も、足音なんて立てなかった。あいつらは沈黙して現れる。
こいつは、歩いてきた。
コツ、コツ、と、革靴みたいな音を立てて。
「――ああ、いた」
声が、した。
◇
人間の、声だった。
男とも女ともつかない、若い声。
喋った。存在喰いが、喋った。
「よかった。観測の子、逃げちゃったから、空振りかと思った」
闇の中で、そいつは言った。
「でも、君がいるならいいや。……君の方が、ずっと美味しそうだ」
俺は、動かなかった。
動けなかった、が正しい。
なぜなら――
◇
そいつが、俺を「見て」いたからだ。
同族誤認が、効いていない。
三週間、俺の唯一の武器だった「存在値ゼロだから警戒されない」が、こいつには通じていない。
「あ、その顔」
声が、笑った。
「『なんで見えてるんだ』って顔だ。……そうだよね。九位も八位も、君のこと、素通りしたもんね」
闇の中で、輪郭が、ゆっくりと立ち上がった。
「教えてあげる」
そいつは言った。
「僕は――君と、同じだからだよ」




