第21話 九条シキ
灯守第七支部は、駅から三十分歩いた郊外の、古い研究施設みたいな建物だった。
看板には『広域災害調査機構 第七地区事務所』とある。表向きの顔だ。
中に入ると、人がいた。
俺を見て、目を留める人間が、いた。
――そりゃそうだ。ここは観測特異体質者の集まりだ。
それでも、十六年ぶんの当たり前を三週間で剥ぎ取られた身には、廊下ですれ違った職員に「おはようございます」と言われただけで、危うく立ち止まりそうになった。
◇
支部長室は、書類の山だった。
その向こうに、女が一人いた。
「九条シキです。第七支部の支部長」
二十代後半。眼鏡。白衣ではなくスーツ。髪を無造作にまとめて、ペンで留めている。
机の上には、コーヒーが三杯。全部、飲みかけで冷めていた。
「灰島トワくん、でいいのかな。……いや、いいはずがないな。君の名前は世界のどこにも記録がない。私が今『灰島トワ』と呼べているのは、白羽の報告書を読んだからだ」
「……はい」
「座って。白羽も」
◇
九条支部長は、ファイルを一つ、机の上に滑らせた。
表紙に、赤い判が押してあった。
『特級観測対象 / 個体名:灰島トワ / 分類:未定』
「分類、未定」
俺は読み上げた。
「そう。灯守の書式には、君を入れる欄がない」
支部長は、冷めたコーヒーを飲んだ。
「討伐者ではない。観測者でもない。被害者――にも、できない。被害者の欄は『不明』としか書けないからね。かといって存在喰いでもない。……君は、うちの制度の外側にいる」
「じゃあ、なんで呼んだんですか」
「制度の外側は、便利だからだ」
◇
支部長は、指を三本立てた。
「事実を三つ言う。一つ、存在喰いは君を同族と誤認して警戒しない。これは討伐において、他のどんな装備よりも価値がある」
「はい」
「二つ、君は捕食によって、倒した個体の能力を取り込める。討伐者が一生かけて習得する技術を、君は一晩で手に入れる」
「はい」
「三つ」
支部長は、三本目の指を折った。
「君は、この世界の記録に存在しない。……つまり、何をやっても、記録に残らない」
部屋の空気が、少し冷えた。
「支部長」
ヰナが、口を開いた。
「今のは、どういう意味ですか」
「言葉通りだよ、白羽」
支部長は、こちらを見た。
目の奥に、悪意はなかった。それが逆に、たちが悪かった。
「彼が死んでも、書類は一枚も動かない。彼が任務で失敗しても、責任を負う組織がない。彼が非合法な作戦に投入されても、誰にも証言されない。……そういう駒が一つあると、私は八位クラスの怪物を、部下を死なせずに倒せるようになる」
◇
俺は、笑った。
笑うしかなかったからだ。
「はっきり言いますね」
「隠して使う方が趣味が悪いだろう」
「……そうっすね」
「白羽の報告書には、君を『まともだ』と書いてある。私も同意見だ。だから、はっきり言った上で頼む」
支部長は、机に手を組んだ。
「灰島トワくん。うちの、非公式の戦力になってくれ」
◇
「見返りは」
俺は聞いた。
「情報だ」
支部長は即答した。
「観測網へのアクセス。存在喰いの位階と生態の記録。捕食の副作用に関する医学的支援。……それと、これは私の裁量でつけられる範囲だが」
彼女は、机の引き出しから、一枚の紙を出した。
『第七支部・臨時協力者 灰島トワ』
名前が、印字されていた。
俺は、その紙を見た。
三週間ぶりだった。
俺の名前が、俺以外の誰かの手で、紙に印刷されているのを見るのは。
「……これ」
「灯守内部の文書は、観測特異体質者しか読めない専用の書式で作られている。世界の記録とは別系統だ」
支部長は言った。
「だから、君の名前を書ける。世界で唯一、この組織だけがね」
◇
俺は、その紙を持ち上げた。
軽かった。ただの紙だ。
なのに、手が震えた。
「……汚ねえな、あんた」
「汚いね」
支部長はあっさり認めた。
「私は君の弱点を三十秒で見抜いて、そこを突いた。君は、記録に残りたい。それが君の唯一の欲望だ。……だから紙を出した」
「……」
「怒っていい。だが、断ってほしくはない」
彼女は、眼鏡を外した。
外した顔は、少しだけ、疲れていた。
「私はこの四年で、部下を十一人失っている。全員、書類上は『事故死』だ。灯守の死者は、存在喰いに喰われた瞬間に記録から消えるからね。……葬式も出せない」
◇
俺は、その言葉に、動きを止めた。
――記録から、消える。
じゃあ、この人も。
この人も、忘れられていく側の人間を、十一人、見送ったのか。
「支部長」
「なんだ」
「その十一人のこと、覚えてますか」
九条シキの手が、止まった。
「……なぜ、それを聞く」
「思い出せる限りでいいんで、教えてくれませんか」
俺は、鞄からノートを出した。
七冊目だ。まだ、二ページしか書いていない。
「書いときます」
◇
支部長は、長いこと、そのノートを見ていた。
それから、眼鏡をかけ直した。
かけ直す時、指がわずかに震えたのを、俺は見なかったことにした。
「……協力者の話は、また今度でいい」
彼女は言った。
「今日は、その十一人の話をしよう。時間はかかるが、いいか」
「いいですよ」
俺は、ペンを出した。
「一人目から、お願いします」
◇
その面談は、四時間かかった。
俺のノートは、七冊目の十八ページまで進んだ。
――そして、その四時間の間に。
街の観測網の、一番外側の反応が、静かに、一つずつ、消えていっていた。
誰も、それに気づかなかった。




