第20話 忘れたくない人
二日後の夕方、俺たちは十二個目を拾いに行った。
場所は、川沿いの遊歩道。記録の残留は「線香の匂い」。
見つけたのは、折り畳み傘だった。
柄のところに、油性ペンで名前が書いてあった。名前の部分だけが、綺麗に抜け落ちて読めなくなっていた。文字の形はあるのに、意味が入ってこない。喰われた人間の名前は、そういう風に「見えなく」なる。
「……気持ち悪いな、これ」
「見えているのに、読めない。……そうです」
ヰナは、傘を受け取って、丁寧に鞄に入れた。
それから、遊歩道のベンチに座った。
座ったまま、動かなかった。
「ヰナ?」
「灰島さん。少し、私の話をしてもいいですか」
◇
俺は、隣に座った。
川面が、夕日でぎらぎらしていた。
「私には、姉がいました」
ヰナは、前を向いたまま言った。
「六つ上でした。私が七歳の時に、喰われました」
俺は、何も言わなかった。
「その日、私たちは、この遊歩道を歩いていました。……ここです」
彼女の指が、五メートルほど先の、なんでもない路面を指した。
「姉が、私の三歩前を歩いていて。それで、いなくなりました」
「……」
「両親は、そのまま歩き続けました。私が『お姉ちゃんは』と聞いたら、母が笑って、『ヰナは一人っ子でしょ』と言いました」
◇
俺は、拳を握った。
俺が二週間前に喰らった感触と、まったく同じものを、この女は七歳で食らっていた。
しかも、俺と違って、彼女は「残された側」だ。
「観測特異体質は、生まれつきです」
ヰナは続けた。
「私は姉を覚えていました。世界でただ一人。……七歳の私は、それが自分の役目だと思いました。私が覚えている限り、姉はいなくなっていないんだと」
「……」
「毎晩、思い出しました。姉の顔。声。癖。よく歌っていた歌。私に貸してくれた本」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。
「――でも、灰島さん」
夕日が、彼女の横顔を赤く塗っていた。
「人は、忘れるんです」
◇
「怪物のせいじゃありません。ただの、時間です」
彼女の声は、静かだった。
静かすぎて、俺は聞いていて息が詰まった。
「十歳の時、姉の声が思い出せなくなりました。十三歳で、癖を忘れました。十五歳で――」
彼女は、膝の上の鞄を、両手で握った。
「顔が、わからなくなりました」
◇
川面で、水鳥が飛び立った。
その音がやたら大きく聞こえた。
「今、私が姉について覚えているのは、三歩前を歩いていたということと、六つ上だったということだけです」
ヰナは言った。
「怪物が姉を喰って、残りは、私が忘れました」
「――お前のせいじゃねえだろ」
俺は言った。声が思ったより荒くなった。
「七歳のガキが十年覚えてただけで十分だ。誰も責めねえよ、そんなの」
「私が責めます」
彼女は、初めて俺の方を向いた。
「灰島さん。あなたのノートを読んだ時、私は――嬉しかったんじゃないんです」
「……」
「怖かったんです」
◇
彼女の手が、震えていた。
「私は、姉のことを一行も書きませんでした。書いておけばよかった。七歳の時に、あなたみたいに、覚えているうちに、全部」
彼女は、目を伏せた。
「書かなかったから、姉は、本当にいなくなりました。怪物ではなく、私が消しました」
「ヰナ」
「だから、灰島さん」
彼女は、顔を上げた。
目が真っ赤で、それでも涙は落ちていなかった。この女は、こういう時にも泣き方が下手だった。
「私だけは、あなたを忘れないと言いました。……あれは、決意ではありません」
「……」
「お願いです」
彼女は、頭を下げた。
「忘れさせないでください。……私が忘れる前に、あなたが、存在値を取り戻してください」
◇
俺は、しばらく何も言えなかった。
言えなかったので、代わりに、彼女の頭にぽん、と手を置いた。
ヰナが、びくりと肩を跳ねさせた。
「……何を」
「約束する」
俺は言った。
「取り戻す。全部。存在値一・〇でも足りねえ。二でも三でもいい。母さんが俺の名前を呼んで、ユメが俺に文句を言って、お前が『いてもいなくても変わらない』って呆れるくらいまで、戻る」
「……そんなに」
「そんなにだ」
俺は立ち上がって、川面に背を向けた。
「それと、もう一個」
「なんですか」
「お前の姉ちゃんの、三歩前を歩いてたって話」
俺は、遊歩道の路面を見た。
なんでもないアスファルト。誰も知らない、誰も花を供えない、七歳の少女が姉を失った場所。
「それ、俺のノートに書いていいか」
◇
ヰナが、息を呑んだ。
「――え」
「番号は〇四八にする。名前は書けない。でも、『妹の三歩前を歩いていた人』なら書ける」
俺は言った。
「お前が忘れても、俺のノートには残る。俺が忘れても、ノートには残る。……そういうもんだろ、ノートって」
ヰナの顔が、崩れた。
この日、俺は初めて、この真顔の女が泣くのを見た。
泣き方は、やっぱり下手だった。
◇
その帰り道だった。
ヰナの端末が、鳴った。
九位を検知する電子音でも、八位を検知した悲鳴でもない。
もっと事務的な、着信音だった。
彼女は画面を見て、表情を消した。
「……支部からです」
「なんて?」
ヰナは、端末を俺に見せた。
『灰島トワの身柄について、支部長が面談を希望。明朝〇九〇〇、第七支部にて』
俺は、その一行を二度読んだ。
「……俺の名前、書いてあるじゃねえか」
「はい」
ヰナの声が、硬かった。
「支部長は――あなたを、『使える』と判断したということです」




