第19話 誰の物でもない箱
それから二週間、俺たちは街を歩き回った。
放課後――といっても俺に学校はないので、正確にはヰナの放課後だ。彼女が制服のまま、端末を片手に走ってくる。
「灰島さん。〇三三の残留、犬の毛です。散歩コースを絞りました」
「絞ったって、どうやって」
「街の防犯カメラの映像から、飼い主のいない犬が同じ時刻に同じ道を歩いている記録を探しました」
「……は?」
「喰われても、犬は残ります」
ヰナは、端末の画面を見せた。
深夜の住宅街のカメラ映像。柴犬が一匹、リードを引きずって、同じ道を歩いている。
毎晩、同じ時刻に。
誰も引いていないリードを、引きずって。
◇
その犬は、三ヶ月間、そうしていた。
保健所にも捕まらず、餌をどこかで拾って、夜十時になると、決まった道を歩く。
俺たちは、その道の途中の電柱の脇で、それを見つけた。
リードの持ち手だった。
ちぎれた革の、握り込まれて黒くなった部分。
俺は、しゃがんでそれを拾った。
犬が、遠くからこっちを見ていた。
――俺は、見えるらしい。
犬には。
「……おい」
俺が呼ぶと、そいつは近づいてきた。俺の匂いを嗅いで、ヰナの匂いも嗅いで、それから、俺の手のリードを見て、しっぽを振った。
「〇三三」
俺は、そいつの頭を撫でた。
「お前の飼い主、雨でも散歩休まなかったんだってよ」
犬は、俺の膝に顎を乗せた。
ヰナが、その場でしゃがんで、犬の背中に手を置いた。
「……灰島さん」
「なんだ」
「この犬、うちで飼えないか、支部長に聞いてみます」
「聞いていいのか、そんなこと」
「聞くだけなら自由です」
真顔だった。
俺は、ちょっと笑った。
◇
二週間で、集まったのは十一個だった。
リードの持ち手。ふやけた単語帳。片方だけの手袋。名前の削れた社員証。バス停のベンチの下に落ちていた老眼鏡。ドレスショップの予約票。錆びた自転車の鍵。
俺たちは、それを段ボール一箱にまとめた。
箱に名前をつけなきゃいけない気がして、俺は油性ペンで、蓋にこう書いた。
『誰の物でもない箱』
書いてから、消した。
――違うな。
書き直した。
『誰かの物だった箱』
◇
箱は、俺の物置部屋に置いた。
母さんは、たまにこの部屋に入るけど、たぶん段ボールが一つ増えても気づかない。この部屋は元々そういう部屋だ。
ヰナが、部屋の入口に立って、中を見回していた。
「……ここが、灰島さんの部屋ですか」
「元、な」
俺は、掘り出されたベッドを指した。
「三週間前まで、これも埋まってた。母さんが自分で掘り出した。理由はわかってない」
「存在値〇・四の効果です」
「わかってる。……わかってるけど」
俺は、ベッドの縁に座った。
「なんかさ。理由がわかってても、嬉しいんだよ。母さんが夜中に一人で段ボール動かしてるとこ想像すると、俺、けっこう来る」
ヰナは、答えなかった。
答えずに、部屋に入ってきて、六冊のノートの前に立った。
「……読んでも?」
「読むもんじゃねえよ、それ」
「読みます」
「聞けよ人の話」
◇
ヰナは、床に座り込んで、一冊目を開いた。
読み始めて、五分後には、二冊目に移っていた。
俺は何も言わずに、窓の外を見ていた。
外は、普通の夜だった。隣の家のテレビの音がして、遠くを救急車が通って、どこかで誰かが笑っていた。
一時間くらい、経ったと思う。
ヰナが、六冊目を閉じた。
◇
「灰島さん」
彼女の声が、少しおかしかった。
「なんだ」
「私は、これまで四年、灯守にいました」
彼女は、床に座ったまま、膝を抱えていた。
「観測して、報告して、討伐部隊が動いて、存在喰いを倒します。……そのたびに、報告書には『被害者・不明』と書かれます」
「……」
「不明です。名前がないので。人数も、正確にはわかりません。だから報告書には、『推定・十数名』とか、『相当数』と書かれます」
彼女の声が、震えていた。
「四年間、私が書いてきた報告書には、一人も、人がいませんでした」
◇
俺は、ベッドから降りて、床に座った。
ヰナは、六冊目の表紙を指でなぞっていた。
「ここには、四十七人、います」
彼女は言った。
「名前がなくても。……肝吸いを二人前しか頼まなかった人も、ドレスの二着目で迷った人も、雨でも犬の散歩を休まなかった人も、全員、います」
彼女は顔を上げた。
目が、赤かった。真顔のままなのが、逆にきつかった。
「灰島さん。あなたは、討伐者より、ずっと」
「……やめろ」
「討伐者より、ずっと、まともです」
「やめろって」
俺は、頭を掻いた。
頭を掻きながら、顔が熱いのを、必死で誤魔化した。
「俺は喰われた側だから、書いてるだけだよ。同情でもなんでもねえ。……俺が消えた時に、誰か一人でも俺のこと書いといてくれたら、って思っただけだ」
「私が書きます」
◇
即答だった。
「……は?」
「私が書きます」
ヰナは、床に膝をついたまま、俺を見た。
まっすぐだった。逃げ場がないくらい、まっすぐだった。
「あなたが、もし、消えたら。私が七冊目を書きます」
「……縁起でもねえこと言うな」
「言います」
彼女は、六冊のノートを胸に抱えた。
「私だけは、あなたを忘れません」
◇
その言葉の重さを、俺はこの時、まだわかっていなかった。
この女が、なぜそれを「約束」の形で言ったのか。
なぜ、その言葉が、彼女にとっては誓いじゃなくて――怯えだったのか。
俺がそれを知るのは、この二日後のことだ。




