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存在ゼロの俺は、世界を喰らう怪物たちを逆に喰らうことにした ~家族に忘れられた最弱の俺が、捕食で成り上がって思い出してもらうまで~  作者: 燈野いさり
第1章 世界に忘れられた日

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第18話 seldom

 塾ビルの非常階段は、四階と五階の間の踊り場が、少し広くなっている。


 自販機が置いてあって、灰皿があって、たぶん、講師がこっそり煙草を吸う場所だ。


 俺は、その踊り場の隅を探した。


 排水口の網の上に、それはあった。


   ◇


 単語帳だった。


 リング綴じの、小さいやつ。雨に濡れて、乾いて、また濡れて、紙がふやけて波打っている。


 拾い上げて、めくった。


 半分から先が、白紙だった。


 書いてある方の、最後のページ。


『seldom めったに〜しない』


 三回、書き直した跡があった。二回は消しゴムで消されて、三回目だけが濃く書かれている。


 ――ああ。


 俺の中の誰かが、笑った気配がした。


 覚えられなかったんだよな、これ。


「三回目で、覚えたんだな」


 俺は、単語帳を閉じた。


「よかったな」


   ◇


 ヰナの記録によれば、その子の反応地点は、この非常階段だ。


 つまり、ここで喰われた。


 塾の帰り、たぶん講師に呼び出されて、あるいはただ煙草臭い階段を通っただけで、そこに九位がいた。


 それだけの理由で、一人の人生が、この世界から抜き取られた。


 俺は、階段の手すりから下を見た。


 塾の窓から光が漏れていて、中で高校生が数学をやっている。誰も、この踊り場に人がいたことを知らない。空席にすらなっていない。名簿にも、月謝の記録にも、最初からいない。


 ――これが、俺の一週間前だ。


 俺は違ったのは、ただ、存在値がゼロで止まったこと。それだけの偶然だ。


「……行くか」


   ◇


 ヰナの記録には、住所も推定されていた。


 観測記録には、その人の「生活の半径」が残る。毎日通った道、寄った店、帰った家。


 俺は、電車で二駅、歩いて十五分の住宅街に立っていた。


 表札は、二人ぶんだった。


 夫婦の名前。


 子どもの名前は、ない。


   ◇


 窓が、開いていた。


 二階の、道路に面した部屋。


 中が見えた。


 ――物置だった。


 段ボールが積まれ、扇風機が箱に入ったまま置かれ、掃除機が壁に立てかけられている。ベッドはない。机もない。


 うちと、同じだった。


 母さんが、俺のベッドを掘り出す前の、あの部屋と。


   ◇


 一階のリビングで、テレビの音がしていた。


 夫婦が、二人で夕飯を食べていた。


 喧嘩もせず、泣きもせず、普通に。


「もう一本つける?」


「んー、いい。明日早いから」


「そっか」


 その会話に、欠けているものは何もなかった。


 欠けていないのだ。


 この家は、三人家族から一人が消えた家じゃない。最初から二人家族の家として、完璧に整合している。


 二人は不幸じゃない。


 誰も苦しんでいない。


 俺は、その家の前で、しばらく立っていた。


   ◇


 単語帳を、ポケットから出した。


 ポストに入れようかと思った。


 入れたら、どうなる?


 夫婦は、見知らぬ子どもの単語帳を見つけて、首を傾げて、たぶん捨てる。それだけだ。


 ――違う。


 俺は、手を下ろした。


 これは、そういうことじゃない。


 この単語帳は、返す先がないから遺品なんだ。返せるなら、それはただの忘れ物だ。


 俺は、単語帳を鞄に戻した。


「……悪い」


 俺は、二階の窓に向かって言った。


「まだ、返せない」


   ◇


 帰り道、公園のベンチに座って、俺はノートを開いた。


 『〇一九 seldomを三回忘れた受験生』の欄に、一行、書き足した。


 『三回目で覚えた』


 それから、単語帳の最後のページを、もう一度見た。


 濃く書かれた「seldom」の下に、小さく、鉛筆で走り書きがあった。


 さっきは気づかなかった。


『これ覚えたら焼肉』


 俺は、そのページを長いこと見ていた。


   ◇


「灰島さん」


 顔を上げると、ベンチの横にヰナが立っていた。


 三角巾は、外れていた。まだ痛むはずなのに。


「……つけとけよ、それ」


「訓練の予定が入っていたので」


「入れんな」


「入りました」


 彼女は、俺の膝の上の単語帳を見た。


 見て、しばらく黙って、それから聞いた。


「……その人は、どんな人でしたか」


 俺は、少し驚いた。


 誰も聞かないと思っていた。この世界の誰も、いなくなった人のことなんて聞かない。聞けるはずがない。いないんだから。


「英語が苦手だった」


 俺は言った。


「seldomを三回忘れて、三回目で覚えた。……で、覚えたら焼肉に行くつもりだったらしい」


「……焼肉」


「そう。焼肉」


 ヰナは、単語帳を見つめていた。


 それから、右手で、そっとリングの端に触れた。


「灰島さん」


「なんだ」


「私も、行っていいですか」


「……どこに」


「拾いに」


   ◇


 風が吹いて、公園の砂を舞い上げた。


 俺は、彼女の顔を見た。


 真顔だった。この女は本当に、いつも真顔だ。


「……四十七人ぶんあるぞ」


「知っています。私が調べたので」


「一年かかるかもな」


「一年でも二年でも」


 ヰナは言った。


「私は、観測しかできません。喰われるのを見つけることはできても、助けられなかった人が、四十七人います」


 彼女は、単語帳から手を離さなかった。


「……焼肉に、行けなかった人が」


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