第17話 四十七人
ファイルの中身は、空欄だらけだった。
一枚につき、一人。氏名の欄は、全部が白紙。当然だ。喰われた人間の名前は、世界のどこにも残っていない。
残っているのは、ヰナの観測記録に映った「痕跡」だけだった。
『個体〇一二 / 推定・成人男性 / 反応地点:市営バス車内 / 残留:魚の匂い』
『個体〇一九 / 推定・少女 / 反応地点:塾ビル非常階段 / 残留:蛍光ペンの匂い、消しゴムのかす』
「……なんだこれ」
「観測に映るのは、存在の輪郭だけです」
ヰナは、ファイルを覗き込みながら言った。
「名前も、顔も、履歴も残りません。残るのは、その人が最後にいた場所と、そこに残った『におい』だけ。……灯守では、これを『残り香』と呼びます」
俺は、四十七枚をめくった。
魚の匂い。蛍光ペン。犬の毛。線香。安いコロンの匂い。夜勤明けの制汗剤。
一枚ずつが、誰かの、最後の一日の切れ端だった。
「灰島さん。あなたは今、この四十七人を『喰った』側から取り込みました」
ヰナが、俺を見た。
「――思い出せますか」
◇
思い出せた。
思い出せたどころじゃない。
昨夜からずっと、頭の中で誰かが喋っている。
初任給で親に鰻を奢った男。あの日、店の名前は「川しげ」で、肝吸いが二人前しか出てこなくて笑った。
結婚式を来月に控えていた女。ドレスの二着目で迷っていて、母親には「一着目の方が似合ってた」と言われて少し腹を立てていた。
単語帳を持ったままの受験生。あいつは英語が苦手で、seldomという単語を三回覚えて三回忘れた。
全部、俺の記憶じゃない。
なのに、俺の中にある。
◇
「……ヰナ」
「はい」
「三日、時間をくれ」
「三日?」
「書く」
俺は、ファイルを閉じた。
「全員ぶん、書く。名前がなくても、思い出せることは全部書く。四十七人ぶん」
ヰナは、しばらく黙っていた。
「……戦闘訓練は」
「それは寝ないでやる」
「寝てください」
「寝るから、三日くれ」
ヰナは、まだ何か言いたそうだった。
言いたそうな顔のまま、彼女は聞いた。
「なぜ、ですか」
◇
なぜ。
その質問に、俺はちょっとだけ、答えに詰まった。
理由なんて、単純すぎて、口に出すのが恥ずかしいだけだ。
「……俺が、一人だからだよ」
「一人?」
「俺のことを覚えてるのは、この世でお前だけだろ」
俺は、ファイルを小脇に抱えた。
「一人でも、いるだけでだいぶマシなんだ。マシっていうか、そのおかげで俺、まだ人間の顔してられる。……四十七人には、それが一人もいない」
「……」
「だったら、俺がやるしかねえだろ。俺の中に、全員入ってるんだから」
ヰナは、目を伏せた。
それから、右手で三角巾を握って、小さく頷いた。
「……ノート、買ってきます」
「え」
「三日で四十七人分は、一冊では足りません」
◇
結果から言うと、六冊になった。
俺の部屋は――正確には俺の部屋だった物置は、掘り出されたベッドの上が机代わりになった。母さんが夜に段ボールを動かしてくれたおかげで、ちょうどノートを広げられる。
書いた。
思い出せる限り、全部。
好きだった食い物。口癖。最後に会った人。言えなかったこと。財布に入れっぱなしのレシート。玄関の鍵の閉め方の癖。
名前だけが、どうしても出てこなかった。
四十七人、全員。
名前だけが、喰われたあとに残らない。
だから俺は、一人ずつに番号を振って、その横に、その人を一行で言い表す言葉を書いた。
『〇一二 川しげの肝吸いを二人前しか頼まなかった人』
『〇一九 seldomを三回忘れた受験生』
『〇三三 犬の散歩を、雨でも休まなかった人』
◇
三日目の夜。
最後の一行を書き終えて、俺はペンを置いた。
窓の外が白み始めていた。
六冊のノートが、ベッドの上に積んである。
――誰も読まない。
この世界のどこにも、この四十七人を探している人間はいない。探すべき人間は全員、その人がいたことを忘れている。
俺の六冊は、誰にも読まれないための記録だ。
馬鹿みたいだ、と思った。
思ったけど、手は勝手にノートの表紙を撫でていた。
「……よし」
俺は立ち上がった。
「返しに行くか」
◇
ヰナの端末には、『残留』の欄がある。
その人が、最後にいた場所。
そこには、まだ、その人の持ち物が落ちているかもしれない。
誰も探していない、誰の物でもなくなった、忘れられた遺品が。
――拾いに行こう。
どうせ俺は、この世界の誰にも見えない。
だったら、誰にも見えないものを拾うのは、俺の仕事だ。




