第16話 物置の部屋
家に帰り着いたのは、深夜二時だった。
鍵は持っていない。当然だ。この家に俺の鍵はない。俺の部屋もない。
いつも通り、洗面所の窓から入る。網戸の建て付けが悪いのを知っているのは、この家で俺だけだ。たぶん、いや、確実に。
廊下は暗かった。
台所を通り抜けようとして、足が止まった。
◇
食卓に、皿が四枚、伏せて置いてあった。
母さんは、洗った皿を伏せて乾かす。翌朝そのまま使えるように。三人家族だから、いつも三枚。
それが、この二週間、四枚になった。
俺の存在値が〇・一を超えた日からだ。母さんは無意識に一枚多く洗って、無意識に一枚多く伏せる。自分でも理由がわからないまま。
今日は。
――五枚あった。
いや、違う。四枚と、コップが二つ。
コップは、いつも三つだった。
俺は、その二つ目のコップを、しばらく見ていた。
どっちが俺のなんだろうな、と馬鹿なことを考えた。
◇
二階へ上がる。
階段の四段目が鳴るのも、俺だけが知っている。踏まずに上がった。
二階の一番奥は、物置だ。
この家が三人家族なのに部屋が四つあるのは、間取りがそうだからで、余った一部屋には母さんが季節物の家電やら段ボールやらを積み上げている。
――俺の部屋だった場所だ。
喰われた日、俺の部屋は「余った部屋」になった。
俺はいつも、そのドアを一度だけ開けて、閉じる。習慣みたいなものだ。
今日も開けた。
◇
段ボールが、減っていた。
部屋の真ん中に、ベッドが出ていた。
埃を被ったパイプベッドが、段ボールの山の下から掘り出されて、部屋の壁際に、きちんと据えられていた。マットレスまで乗っている。
膝が、勝手に折れた。
俺は、その場に座り込んだ。
「……なんだよ、それ」
声が、変な音になった。
母さんは今日、仕事から帰って、飯を作って、皿を洗って、それから、この部屋の段ボールを動かしたのか。
なんでこんなことしたんだろう、と思いながら。
誰のためかもわからないまま。
◇
ベッドの縁に手を置いた。
埃が指についた。ちゃんと、現実の埃だった。
――〇・四。
ヰナの端末が示した、今夜の俺の存在値。三倍に跳ね上がって、それでも、まだ一の半分にも届かない。
でも、〇・一で皿が一枚増えた。
〇・四で、ベッドが出た。
じゃあ、一になったら?
二になったら?
俺は、埃のついた指を握った。
「……足りねえな」
◇
翌朝。
俺は台所の隅で、家族の朝を見ていた。
これも習慣だ。見ていても誰も気づかないから、いくらでも見ていられる。世界一つまらない特等席だ。
「ユメ、早く。遅刻するよ」
「んー……」
妹のユメが、寝癖のまま食卓についた。中二。朝に弱いのは昔からだ。
ユメはトーストをくわえて、それから、変な顔をした。
「……ねえ、母さん」
「なに」
「またあの夢見た」
俺の背筋が、伸びた。
「知らない人が出てくるやつ?」
「うん。……顔は見えないんだけど。あたしがドッジボールで負けて泣いてたら、そいつが『はい、次』って言うの」
――ドッジボール。
小四の秋だ。ユメがクラス対抗で最後まで残って、それでも負けて、家で泣いた。俺はコンビニで買ったアイスを渡して、「はい、次」と言った。
母さんが笑った。
「よく見る夢って、疲れてる証拠らしいよ」
「そうかなあ。……なんかさあ」
ユメはトーストをかじって、もごもごと言った。
「あたし、あの人のこと、知ってる気がするんだよね」
◇
俺は、台所の壁にもたれて、天井を見た。
見ないと、こぼれそうだった。
「……知ってるよ」
誰にも届かない声で、俺は言った。
「お前は俺を知ってる。ちゃんと、十四年ぶん」
ユメは、俺の立っているあたりを、一瞬だけ見た。
見て、首を傾げて、また視線を戻した。
それだけだ。
それだけで、今日は、十分だった。
◇
玄関の外に、白い制服が立っていた。
白羽ヰナ。左腕を三角巾で吊ったまま、朝の七時から人ん家の前に立っている。
「……お前、腕」
「折れてません。ヒビです」
「同じだろ」
「違います。ヒビは折れてません」
真顔だった。この女はいつも真顔だ。
ヰナは、吊っていない右手で、分厚いファイルを差し出した。
「灰島さん。仕事です」
「仕事?」
「昨夜、あなたが捕食した八位が喰っていた人数――四十七人ぶんの、照合結果です」
俺は、ファイルを受け取った。
思ったより、ずっと重かった。




