第15話 影より深く
九十九本の腕が降ってきた。
俺は影に潜った。潜って、逃げて、浮上して――目の前に口。また潜る。浮上する。口。潜る。
「っ、この……!」
読まれてる。
いや、違う。読まれてるんじゃない。潰されてるんだ。腕が地面を叩くたび、街灯が割れ、看板が砕けて、俺の「窓」になる影が一つずつ消えていく。影渡りの元の持ち主は九位ども――こいつの兵隊だ。対処法なんて、飼い主が一番よく知ってるに決まってる。
浮上した瞬間、視界の端で銀が閃いた。
「こっちを! 見なさい!」
ヰナの残灯が、巨人の胴を焼く。憎悪の半分が彼女に逸れて、俺はかろうじて口の間をすり抜けた。
だが、直後。
腕の一本が、大きく薙いで――ヰナの体が、宙に浮いた。
「ヰナ!!」
彼女は受け身を取って転がった。立ち上がる。立ち上がったが、左腕がだらりと下がっていた。それでも右手一本で残灯を構え直す。構えるな、馬鹿。逃げろ。
逃げないんだよな、あいつは。
世界でただ一人、俺を見てくれる目が、俺のために潰されようとしてる。
――頭が、冷えた。
沸騰しながら、冷えた。初めての感覚だった。
考えろ。影は潰された。真正面は百の口の弾幕。あいつは残り一撃で落ちる。俺に残ってる「窓」は――
……あるじゃねえか。
一つだけ、絶対に潰せない影が。
「ヰナ! 最後のお願いだ! ありったけ、正面に撃て!」
息を呑む音。それでも彼女は聞き返さなかった。信じたんだ。数字と、それから、俺を。
「――残灯、全弾!」
銀の雨が巨人の正面に突き刺さる。百の口が、ヰナへの殺意で埋め尽くされる。
その巨体の、真下。
街の明かりを一身に浴びた影の巨人の足元には――巨人自身の、馬鹿でかい影が落ちている。
お前の影は、お前には潰せないだろ。
俺は跳んで、その影に、頭から潜った。
◇
冷たい水底から見上げる、巨人の腹。
俺の空っぽが、かつてない大きさで、口を開けた。
「――いただきます」
真下から、喰らいついた。
◇
熱が、洪水になった。
九位の比じゃない。喉から胸から腹から、存在の熱が滝みたいに流れ込んで、そして記憶が来た。何十人ぶんの、欠片、欠片、欠片。
初任給で親に鰻を奢った人。結婚式を来月に控えてた人。犬の散歩が日課だった人。単語帳を持ったままの受験生。夜勤明けの看護師さん。誰かの父親。誰かの娘。誰かの、大事な誰か。
重い。
重いよ、あんたら。
いいぜ、全員、覚えてやる。ノートが何冊いるか知らないが、全員ぶん書いてやるから――俺の中で、ちょっとだけ待ってろ。
巨人の輪郭が崩れ、黒い霧が渦を巻いて俺に呑まれていく。最後のひと呑みを終えた時、駅前には、割れた街灯と、何も知らない人々のざわめきだけが残っていた。
「……勝っ、た……?」
ヰナがへたり込む。俺も膝をつく。立ってられなかった。
ふと、右腕が熱いのに気づいた。見ると、袖口から覗く手の甲に、黒い紋様が浮かんでいた。腕の形の、入れ墨みたいな影。……こいつの「百の腕」が、俺の中に定着しようとしてる。
「存在値……跳ね上がってます……ゼロ・四……一気に三倍……」
ヰナが端末を見ながら、痛む腕も忘れて笑った。俺も笑った。ボロボロの二人が、夜の駅前で馬鹿みたいに笑った。
母さん。今夜は皿、何枚出すかな。
――その時だった。
音が、消えた。
人々のざわめきが、車の音が、すっと遠のいて、街の温度が下がった。この感覚を、俺の体は覚えている。あの水路の路地で、人生が終わった夜と、同じ肌触り。
駅ビルの屋上。
外套のような影を纏った、人型のシルエットが、立っていた。
遠い。顔も見えない。なのに、分かる。あれは俺たちを「見て」いる。八位が喰われる一部始終を、最初から最後まで、観察していた。
「……観測値……振り切れて……」
ヰナの端末が、ぶつりと黒く沈黙した。彼女の声が震える。
「八位より……上……」
シルエットは、慌てるでもなく、怒るでもなく。
ただ一度、値踏みするように首を傾げて――嗤った気配だけを残して、夜に溶けた。
俺は右腕の黒い紋様を握りしめて、そいつが消えた闇を睨んだ。
「……あれが、七位」
九位を配置してたのも、八位をけしかけたのも、あいつだ。根拠はないが、確信があった。
いいぜ。何位だろうが、やることは変わらない。
喰われたもんは、全部取り返す。
――俺たちの戦争は、まだ、入り口だった。




