第12話 涙の味
最初の一滴が頬を伝った時、俺はまだ「これは汗だ」と言い張るつもりでいた。
二滴目で無理だと分かった。
三滴目からは、数えるのをやめた。
俺は路地の電柱に額を押しつけて、声を殺して泣いた。十六年生きてきて、こんな泣き方をしたのは初めてだった。悲しくて泣くんじゃない。悔しくて泣くんでもない。
嬉しくて泣くのが、こんなに痛いなんて、誰も教えてくれなかった。
「……戻れるんだ」
声が、勝手に漏れた。
「俺……戻れるんだ……」
喰われて、消えて、全部なかったことにされて。役所の紙にも、写真にも、友達の記憶にも、どこにも俺はいなくて。それでも喰って、喰って、喰い返せば――母さんの手が、俺のぶんの皿を出す。
帰れる。
あの食卓に。四人掛けのテーブルの、俺の席に。いつか、帰れる。
でかいじゃがいものカレーに、文句を言いながら、また会える。
「っ、く……」
嗚咽って、抑えようとするほど変な音になるんだな。膝が笑ってる。電柱がなかったら座り込んでた。誰にも見えない少年が、夜の路地で一人、壊れたみたいに泣いてる。世界中の誰もこの涙に気づかない――
「――灰島さん!」
一人を、除いて。
振り向くと、路地の入口でヰナが息を切らしていた。手には観測端末。走ってきたらしく、生真面目な襟元が珍しく乱れている。
「観測値が急に揺れたから、何かあったのかと……っ」
彼女はそこで、俺の顔を見た。
俺は慌てて袖で目元を拭った。手遅れなのは分かってたけど、拭かずにいられるほど大人でもなかった。
「……よお。観測者どの。夜間巡回ご苦労さん」
「…………」
「悪い、なんでもない。ちょっと、目にゴミが」
「なんでもなくないです」
ヰナはつかつかと歩いてきて、俺の正面に立った。
それから、鞄からハンカチを出した。アイロンのかかった、きっちり四つ折りのハンカチを、両手で、恭しく差し出してきた。お前は表彰状か。
「……どうぞ」
「いや、いい。袖あるし」
「どうぞ」
「圧が強いんだよ」
受け取った。四つ折りのハンカチは、太陽の匂いがした。ちゃんと干された布の匂い。ちゃんとした生活の匂いだ。倉庫暮らしの俺には、それだけでまた滲みそうになるから、勘弁してほしい。
「……家、見てたんですね」
ヰナが窓明かりのほうを見て、静かに言った。
「食器、四枚だった」
「……!」
「母さん、覚えてないのに、俺のぶんの皿を出してた。『誰か帰ってくるかもしれないでしょ』ってさ。……なんだよそれ。ずるいだろ。こっちは覚悟決めて忘れられてたのに」
しゃべると、また声の後ろが震えた。ヰナは笑わなかった。茶化さなかった。手帳も出さなかった。ただ隣に並んで、同じ窓明かりを見た。
「灰島さん。報告があります」
「……なんだよ、あらたまって」
「今日の捕食分を含めて、存在値、ゼロ・一二まで回復しました。この五日間の上昇曲線から計算すると――」
ヰナは端末を差し出して、画面のグラフを俺に見せた。底を這っていた線が、右肩上がりに、確かに空へ向かっていた。
「あなたは、戻れます。時間はかかっても、必ず。数字は、嘘をつきません」
「……数字は嘘をつかない、ね」
「わたしの目も、嘘をつきません」
ヰナはまっすぐ俺を見て、言った。
「あなたのお母さんは、世界で一番早く、あなたを思い出し始めています。誰よりも先に。……当たり前です。十六年、毎日あなたを見てきた人なんだから」
……ハンカチ、もう一回借りるぞ。
太陽の匂いのする布に顔を押しつけて、俺は最後のぶんまで、ちゃんと泣いた。
泣き終わってから、夜空を見上げて、決めた。
もっと喰う。
九位なんて言わず、その上も、そのまた上も。この街の存在喰いを一匹残らず腹に収めて、喰われた人たち全員のぶん、取り返す。
俺の席と、縁側のじいさんと、パキラの部屋の彼女と、餃子二人前の兄ちゃんのぶんまで、全部だ。
「ヰナ。次の獲物の話をしよう」
「……はい。ですが、その前に」
ヰナの表情が、観測者の顔に戻った。
「一つ、気になっている報告があります。……最近この街、九位の数が多すぎるんです」




