第10話 影渡り
「訓練計画を立ててきました」
翌日の詰め所で、ヰナがクリップボードを差し出してきた。
『影性能力習熟計画(案) 第一段階:接触(十五分) 第二段階:部分潜行(三十分) 休憩(十分) 第三段階:全身潜行……』
「……あんた、遠足のしおりとか作るの得意だったろ」
「班長を六年連続で務めました」
「知ってた」
昨夜の帰り道、俺の影は明らかに「生きて」いた。ヰナの観測によれば、捕食した九位の能力が俺の中に定着しつつあるらしい。九位どもが影から影へ渡っていた、あの移動方法が。
場所は詰め所の裏、ビルとビルの隙間の日陰。俺はしゃがんで、自分の影に手を当てた。
「第一段階、接触。影を『地面』ではなく『水面』だと思ってください」
「ずいぶん詩的な指導だな」
「灯守の教本の言い回しです。……あ」
手が、沈んだ。
冷たい。でも、嫌な冷たさじゃない。夏のプールに手を入れた時の、あの心地いい方の冷たさだ。俺の手首から先が、アスファルトの上の影の中に、ゆらゆらと消えている。
「うわ、きも」
「きもくないです。成功です。第二段階に進みます」
ヰナは大真面目にストップウォッチを押した。
◇
結論から言うと、計画表は三十分で全部終わった。
影に潜るのは、怖いというより、懐かしかった。
影の中は、冷たい水の底みたいな場所だった。上を見ると、地上の光が水面みたいに揺れてる。で、離れた場所の影が、水底から見る別の「窓」みたいに見える。あとは、あっちの窓から顔を出せばいい。
街灯の影から、電柱の影へ。
電柱の影から、ビルの壁の影へ。
「……はやい」
ヰナがストップウォッチを持ったまま、ぽかんとしていた。
「教本だと、影性能力の習熟は平均三週間です。なんで初日でできるんですか」
「さあな。……ただ、なんつうか」
俺は影から上半身だけ出した状態で言った。我ながらホラーな絵面だ。
「影の中のほうが、居心地いいんだよ。今の俺には」
言ってから、しまったと思った。ヰナが泣きそうな顔をするかと思った。
でも彼女は、手帳にこう書いただけだった。
「『適性:規格外。理由:本人の現在の在り方と一致するため』……と。じゃあ、実戦テストに行きます」
こういうところが、ありがたいんだよな。この観測者どのは。
◇
三匹目の九位は、立体駐車場の暗がりにいた。
仕事は、十秒で終わった。
やつが残業帰りの女の人に狙いをつけて、口を開く。俺はその足元の影から音もなく浮かび上がって、開いた口ごと、頭から喰った。
冷たさ。熱。流れ込む誰かの欠片――今夜のは、ラーメン屋の常連の、餃子を必ず二人前頼む太った兄ちゃんだった。覚えた。餃子二人前、覚えたからな。
女の人は何も知らずにエレベーターに乗っていった。それでいい。知らないまま、生きててくれ。
「討伐完了、捕食完了。……存在値、また上がってます」
ヰナが端末を見ながら、自分のことみたいに口元を緩めた。
「ゼロ・ゼロ・九。この調子なら――」
◇
その帰り道だった。
コンビニの前で、俺は足を止めた。自動ドアから出てきた小柄な影に、見覚えがありすぎたからだ。
ユメだった。
妹は塾帰りらしく、参考書の入った鞄を提げて、アイスをくわえて、俺の横を通り過ぎた。
俺を見なかった。それはいい。慣れてる。慣れることにしてる。
でも。
三歩行ったところで、ユメの足が、止まった。
振り向いた。
俺を――正確には、俺のいるあたりの空間を、探すように見た。眉を寄せて、首をかしげて、何かを思い出そうとするみたいに。
「……なんだろ。今……」
十秒くらい、そうしていた。
それから妹は、不思議そうな顔のまま、歩いていった。
俺はその場から動けなかった。ヰナが黙って、隣に立っていてくれた。
翌日の夕方も、俺は性懲りもなく、家の見える路地に立った。もう日課だった。遠くから明かりを見るだけの、不審者一歩手前の日課。
台所の窓の中で、母さんが夕飯の支度をしていた。
そして、食器棚から皿を出して、テーブルに並べ始めた。
一枚。二枚。三枚。
――四枚。




