琥珀の沈黙、境界の図書館
「……ピニオン、それは、ただのゴミだよ。地下を歩き回った時に、どこかで……」
ロスカは誤魔化そうと精一杯の笑みを浮かべた。しかし、内装された演算回路が動揺を抑えきれないのか、引きつった頬の筋肉が自ら嘘を露呈させていた。
ピニオンはロスカの腕を強く掴んだまま、作業台の上に散った、あの不吉な琥珀色の結晶を、射抜くような不審な目で見つめている。部室を照らす古ぼけた電球がチカチカと瞬き、二人の影を不規則に揺らしていた。
「嘘をつかないで! こんな不気味なゴミ、学園のどこにあるっていうのよ。……最近あんた、ずっと変よ。メインゼンマイの巻きも不安定だし、顔色だって……」
ピニオンの瞳には、正体不明の危険にロスカが巻き込まれていることへの、耐え難いほどの恐怖が滲んでいた。彼女は整備士ではない。けれど、幼い頃から隣にいて、彼がどれほどの熱量でゼンマイを巻き、どんなリズムで歩くのかを、誰よりも身体に刻み込んできた。彼女にとって、今のロスカが刻む微かな振動の狂いは、学園のどんな警告灯よりも鮮明な異常事態を告げていた。
ロスカは、自分を案じる彼女の手を、そっと、しかし拒絶するように解いた。その拒絶は、絶対的な恐怖から彼女を遠ざけるための、悲しい防壁だった。
「……ごめん。本当に、どこで付いたのか覚えてないんだ。ただの古い建物のゴミだから……心配しなくていいんだよ」
目を逸らしてついた嘘。それは二人の間に積み上げてきた時間を、ロスカ自らが切り裂くような行為だった。ピニオンは、空中に残された自分の手を見つめ、唇を白くなるほど強く噛みしめた。立ち入れない壁が自分とロスカの間に引かれたことを、彼女は痛いほどに悟っていた。
その重苦しい沈黙を、不意に場違いな軽薄さが切り裂いた。
「おいおい、ピニオン。そうカリカリしなさんな。ロスカの言う通りだよ。そいつは昨日、ちょっとした不注意で紛れ込んだ古い建材の破片だ」
スパナだった。彼女は作業椅子の背もたれに深く体重を預けたまま、退屈そうに指先でレンチを弄んでいる。
「地下の古い換気扇のダクトにでも溜まってたんだろうよ。錆びたオイルと鉄粉が固まりゃ、そんな不気味な色にもなるさ。掃除をサボってる学園の管理不足だ。……だろ、ロスカ?」
スパナの言葉は、明らかにロスカの稚拙な嘘を補強するための援護射撃だった。しかし、その声には一切の熱がなく、取ってつけたような白々しさが漂っている。ロスカは救われたような思いでスパナを見たが、それは同時に、ピニオンの逆鱗に触れる最悪の一手でもあった。
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「……あんたまで、そんな下手な嘘をつくの?」
ピニオンの声が、怒りで震えていた。
「専門外の私が見てもわかるわ。これはただの建材なんかじゃない。いいわ! これ以上隠し通すつもりなら、私、今すぐ先生たちにこれを届けて、徹底的に調べてもらうから!」
彼女が結晶の欠片をひったくり、部室を飛び出そうとした、まさにその時だった。
「――待ちな、ピニオン。それに、そこで寝たふりしてるボルトも」
先ほどまでの軽薄さを完全に消し去った、スパナの低い声が響いた。その鋭い響きに、ピニオンの足が止まる。 作業台の上でスリープモードを装い、事の成り行きを伺っていたボルトも、気まずそうに片目を開け、重い腰を上げた。
「――おいおい、わかった。白旗だ」
スパナは苦笑いしながら、被っていた帽子の庇をぐいと下げた。隠し通せるとは思っていなかったが、彼女の覚悟は予想以上だった。スパナは一つ大きな溜息をつくと、二人を真っ直ぐに見据えた。
「隠し事をしたのは悪かった。 お前たちをこんな面倒なことに巻き込みたくなかったからだ。だが……今のロスカを見てると、そろそろ俺たちだけで抱え込むのも限界らしい。……それに、嫌な予感がしてるんだ。俺たちの手に負えないモノが、すぐそこまで来てる予感がな」
「手に負えないモノ……? スパナ、何を知ってるのよ」
ピニオンの問いに、スパナは作業台の上の結晶を忌々しげに指差した。
「そいつはな……学園外のイカれた組織、『ギア・イーター(歯車喰い)』とか『リ・バース』とかいう連中が流した『あがきの残骸』だ。人間になりたいなんていう、機人の本質を忘れた妄想に取り憑かれた連中のな。昨日、ロスカが地下で会ったのは……あいつらの手引きをしていた『教頭』だよ」
「……教頭先生が? だってあの人は、体調不良で急に退任したんじゃ……!」
ピニオンの驚愕の言葉に、スパナは鼻で笑った。
「表向きはな。だが現実は、学園という檻の中に外部の汚物を招き入れていた裏切り者だ。教頭一人ならまだしも、連中は学園の『外』に巨大な地盤を持ってやがるらしい。ヤツらはロスカを……いや、機人を自分の都合のいいように作り変えようと狙ってる。連中が本格的に動き出せば、学園のルールなんて何の盾にもなりゃしねえ」
スパナは立ち上がり、じりじりと二人へ歩み寄った。その歩みは、まるで闇の中から獲物を追い詰める獣のような威圧感を孕んでいた。
「俺たちが対峙しなきゃならないのは、学園そのものじゃない。学園に紛れ込み、あるいは外から食い破ろうとするあの狂信者どもだ。……ボルト、お前のその頑丈な身体。それにピニオン、お前のロスカを思う執念。……今のロスカを守り、ヤツらを叩き潰すには、それらが必要になる」
スパナは不敵な笑みを浮かべ、二人を誘った。
「どうだ。こっち側(ねじ巻きクラブ)に入って、一緒にこの面倒事を片付けないか? 隠し事をされるのが嫌なら、隣で全部見張ってりゃいい」
スパナの誘いに、ボルトは力なく自分の右腕を見つめた。再生されたばかりのその腕は、皮肉にも教頭の『疑似筋肉』ではなく、スパナの『鋼の技術』によって繋ぎ止められたものだ。
「……ハッ、戦闘要員かよ。……今の俺に、そんな大層なことができると思うか、ドクター」
ボルトの声は低く、自嘲気味に震えていた。かつての傲慢さは影を潜め、信じていた世界が崩れ去った者の虚脱感が漂っている。
「俺は、実験道具だったんだ……。強いヤツを壊して回ってたつもりが、俺自身が壊されるのを待つだけのモルモットだった。……そんな抜け殻が、外の組織だの何だのに、付き合えるわけねぇだろ」
ボルトは顔を伏せ、立ち去ろうとした。だが、その足は扉の前で動かなくなる。
「……けどよ。このまま、あいつらの思い通りに壊されるのだけは……御免だ。……ドクター。あんたのその、学園の常識を無視したやりかた……。それが、俺をただのモルモットから、戦うための『機人』に戻してくれるってんなら……。その妄想野郎どもに一矢報いるまで、俺をここに置いてくれ。」
ボルトが静かに決意を口にしても、ピニオンの疑念は晴れなかった。彼女はスパナを鋭く睨みつける。
「……冗談じゃないわ。ボルトはともかく、なんで私たちまで巻き込むのよ! そもそも、あんたがロスカに変な知恵をつけて、危ない地下にまで連れ回したんでしょ? 全部あんたのせいじゃない!」
「否定はしねぇよ」
スパナは淡々と言い放った。
「だがな、ピニオン。俺が何もしなくても、あいつらはロスカを見つけ出したはずだ。……今のロスカに必要なのは、過保護な隠れ家じゃない。自分を守るための『知恵』と、いざって時に背中を預けられる『仲間』だ」
「……っ! それが、あんたみたいな怪しい整備士だって言うの?」
ピニオンは悔しげに拳を握った。ロスカを連れてこの場を去りたい。けれど、スパナが言った『外の脅威』が本当なら、自分一人の手ではロスカを守りきれないことも、本能で理解していた。
「……わかったわよ。私も、この『ねじ巻きクラブ』に入るわ。でも勘違いしないで。あんたを信じたわけじゃない。ロスカがそんなおぞましい連中に狙われてるって言うなら、私が隣で、あんたの変な改造ごと監視してやるんだから!」
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嵐のようなやり取りが幕を下ろし、ピニオンが『監視』のために部室の整理を始め、ボルトが修理台の上で再び沈黙に落ちた頃、ロスカは逃げるように部室を抜け出した。 深夜の校舎。街灯の届かない長い回廊は、機人の感覚器官でも捉えきれない深い闇に包まれている。
ロスカが向かったのは、夜間、唯一解放されている天体観測テラスだった。 鉄の扉を押し開けると、冷たい夜風がロスカの擬似皮膚を撫でた。そこには、かつて初夏の日差しの中で並んだ時と同じように、フェンスに身を預けるコハクの姿があった。
「……コハクさん」
彼女はゆっくりと首を巡らせた。暗闇の中でも、彼女のサファイアとエメラルドの瞳は静かな光を湛えている。
「ロスカさん……。こんな時間にどうしたんですか? あなたの駆動音、今日はいつもよりずっと、鋭く軋んでいます。」
ロスカは彼女の隣に立つと、今までの出来事をまたポツポツと話し始めた。
「……以前、クランクから聞いた『リ・バース』の話……覚えている? 人間の肉体を求めて影を追う、悲しい集団の話。……あれは、お伽話じゃなかったんだ」
ロスカは、地下で目撃した教頭の変貌を語った。学園の規律の象徴だった男が、疑似筋肉という醜悪な肉に侵食され、機人としての誇りを捨てようとしていたこと。その残骸が、今も部室に転がっていること。
「クランクは『絶対に不可能だ』と言っていたけれど……。教頭先生は、本気でそれを実現しようとしていた。僕を『出来損ない』と蔑みながら、自分から壊れていく姿は……クランクの警告よりも、ずっとおぞましかった」
コハクは、以前ロスカから聞いた話を反芻するように、静かに目を伏せた。
「……点と点が、血を流しながら繋がっていくような感覚ですね。私たちが『特別な個体』として狙われるかもしれないという不安が、今、確かな形を持って目の前に現れた……」
ロスカは頷き、少しだけ声を震わせながら続けた。
「でも、今日……変わったこともあるんだ。……ピニオンとボルトが、僕たちと一緒に戦ってくれることになった。スパナを中心に、『ねじ巻きクラブ』として、この歪な真実に向き合うことに決めたんだ」
それを聞いた瞬間、コハクの指先がピクリと動いた。 彼女は再びフェンスの向こう、闇に沈む学園の境界線に視線を戻した。
「……ピニオンさんと、ボルトさんも」
その呟きには、以前ロスカに「私とあなたの間に流れる音だけは本物」と語った時とは違う、微かな、それでいて複雑な響きが含まれていた。
「……いいですね。以前のあなたには、私との共鳴しかありませんでした。でも今は、その熱を分かち合える『居場所』ができたのですね」
コハクは寂しげに、けれど慈しむように微笑んだ。
「少しだけ……。いえ、本当はとても、うらやましいです。あなたがその新しい仲間たちと、嵐のような渦の中に飛び込んでいく姿を想像すると。……でも、ロスカさん。私は、ただあなたの報告を待つだけの存在には……なりたくない」
コハクは手摺りから身を離し、一歩、ロスカの方へ足を踏み出した。 夜風に髪をなびかせながら、彼女のサファイアとエメラルドの瞳は、静かに、けれど揺るぎない光を湛えてロスカを見つめている。
「あなたが迷った時は、私の音を聴いてください。……私も、あなたの音を頼りにします。二人のリズムを重ねていければ、どんな暗闇だって……一人で見るより、ずっと怖くないと思うんです」
コハクはそっと手を伸ばし、フェンスを握るロスカの手に、触れるか触れないかの距離で自分の手を添えた。
夜風が吹き抜け、二人の影を一つの大きな輪郭のように揺らす。
ロスカは、自分の中にあった孤独な恐怖が、コハクの控えめながらも確かな意志に溶かされていくのを感じていた。
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