~イントロダクション~「今宵、桜」(お縄)
舞い落ちた桜の花びらが、バタバタとした足音に踏み散らされた。
何かに追われているのであろう複数の男女が、灯りのない道を必死で走りすぎてゆく。
その後、さほど時間を空けず、同心と配下――目黒・黄市・大介――が揃った足並みで距離を縮めていた。
追っているのは、大黒屋の番頭と下女。その数、合わせて七人。
暗がりの中に動く人影が見えた。懸命に走りながら、時折後ろを振り返っている気配がある。
「あれだ。」黄市が低く呟く。
その声が聞こえたかのように、人影たちは道を曲がった。
役人に追われる番頭たちは、必死に逃げ回っている。
何度目かの角を曲がり、次の道を探して目をぎょろつかせると、
通りの少しむこうに、二人の男がいた……
いや、二人いるはずなのだが、何故だろう?
確かに、二人いる。だが、目につくのは一人だけ。
絶対そこにもう一人いる。――いるはずなのだが、どうにも目がいかない。
だが、今はそれを気にしている場合ではない。
「ここは我らが!」「番頭殿はお先へ!!」
用心棒が二人足を止め、刀に手をかける。
番頭たち五人は一瞬だけ立ち止まり、再び角を曲がってその先へと走った。
足止めの用心棒二人は、改めて相手を見る。とても見えづらいが、確かに相手も二人。
理由も分からない。だが、時間の余裕もない。厄介な方から先に片付けるべきだ。
そう考えた一人が、気配を頼りに斬りかかった。
近付けば、なんとか男が見えた。
「そこっっ!!」 気迫充分に刃をまっすぐ突き出す。
「…はずれだねぇ」刀はそのまま空を突き、耳元で柔らかな否定が聞こえた。
用心棒が横に振り向くより早く―――トンッッ
と、小さな音がした。
辰はいつの間にか、その手に長い煙管を持っていた。
迫ってきた用心棒を音もなく躱し、その首筋に軽く煙管を当てる。
端から見れば、ただそれだけ。だが、斬りかかった男は、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
「辰さん…えげつなぁ~」
橙の声がやけに呑気に響いた。
「どりゃぁぁぁぁ!!!」
次の瞬間、もう一人が橙の背後から大きく振りかぶった。
「あっぶな!!!」声とは裏腹に、橙はほんの一歩、いや、半歩横に動いて刀を避ける。
刀は空を切り、用心棒はすかした勢いのまま、大きく泳いだ。
前のめる用心棒の視界いっぱいに黒い影―――ドゴンッッ!
今度は大きな音がした。
橙は倒れ来る用心棒の顔面に、膝をたたき込んだのだ。
「あたたたた…ひ、膝が…」橙が膝をさする。
「…橙…あんたも大概だよ」 その横で辰が煙管を吹かしつつ苦く笑っていた。
一方その頃、番頭たち五人は大橋の袂まで走ってきた。
既に皆が息を切らし、足はもつれ始めている。かなり苦しそうだ。
と、橋の上に何かがいる。雲の切れ間から、月が橋の上を照らした。
「っっ!!!」 「お!!鬼っっ!!!!」 誰かが叫びにならない声を上げた。
橋の上から、手足の長い大きな黒い影が、ゆっくりと彼らに向かってくる。
下女たちは腰を抜かしている。その内の一人は泡を吹いて倒れた。
「………」鬼影が動きを止めた。
それに気づいた番頭は、来た道を引き返すべく、必死で足を動かした。
「…これはこれは、大黒屋の利平さんじゃござんせんか…」
目の前で男の声がする。だが、誰も…いや、なにもいない。首をいくら回しても、気配がうかがえない。
(誰だ……)
息が切れるほど走り続けたのに、背中を流れる汗がやけに冷たい。
「ご主人さんには、いつも大変なご贔屓…」
(誰だ。ダレなんだ……)
背中だけでなく、顔にも冷たい汗が流れてくる。
「ありがたく思っておりますよ。」
(こわい……)
誰もいない。いないはずなのに。見えないのに…
「でもね?番頭さん…」
(こわいこわいこわい………)
なぜ!なぜワタシの真横から!耳元から!!
「こいつぁいただけねぇなぁ…」
(こわい!だれだ!なんなんだ!!こわい!こわいこわいこわいこわ…)
突然、番頭の目の前に顔が現れた。番頭の顔が恐怖に凍り付く。
「なぁっっ??!」
「なあぁぁっっ!!!」
しかし、番頭の悲鳴は誰の耳にも届くことなく、蒼太の凄まじいまでの一声にかき消され、
番頭はその声に殴られたかのように、白目をむいてその場に崩れ落ちた。。
大きな音がして、我に返った下女達は、橋の上の鬼影から少しでも離れようと、四つ這いで逃げ出した。
この際、離れられるなら、逃げ方なんてなんでもいい。とにかくここから逃げなくては…
「あら、気が付きましたか…」 美しい着物の裾が見え、その柄に似合わぬ低い声が降ってきた。
顔を上げると、艶やかな女が一人、自分達の前に立っている。
今、喋ったのは…?
下女は逃げることも忘れ、ただ目の前の女に視線を縫い留められた。
―――ふわっ―――
女は手の平を口元に寄せ、小さく風を吹きおろした。
ただそれだけの動作なのに、甘い香りが周囲に充満する。
下女達の意識は、ここで途切れた。
「ねぇ、蒼太ぁ。地面揺れたよぉ。」
蒼太の袖を、お亮がくいくいと引く。
――ドスッ……ずっっ――
「俺の声にそんな力ねぇよ。」
蒼太は道端に倒れた者たちを見下すように眺めている。
――ドスッ……ずっっ――ドスッ……ずっっ――
「…いや、揺れてるわ」 「………」
二人は同時に橋の方を向いた。
橋の上にいた『鬼影』が大股でこちらへ近づいてきた。
と、影は二人の前でピタリと止まった。
白い月明りがその姿をくっきりと照らし出した。
口元はへの字に強く結ばれ、眉間には皺。
長い腕は胸の前で組まれ、仁王立ちで二人を睨みつけている。
「……………」
―――そして―――
みるみるうちに、両の頬が膨らんだ。
思わず指でつつきたくなるような立派な膨らみだが、今はそうじゃない。
二人は意図せず同じように、人差し指をもう片方の手の平で包んだ。
「ありがとう、シロ。」
そう言いながら、お亮は腕を伸ばし、自分より高い位置にあるシロの頭を優しくなでた。
だが、シロの両頬はしぼまない。
なんなら、先程より大きくなっているように見える。
その一部始終を見ている蒼太は、肩を震わせっぱなしだ。
可愛い弟分のため、必死で笑いをこらえている。…が、どうにも隠しきれていない。
そうこうしている内に、目黒が三人の元に着いた。
「大丈夫ですか?」
目黒は蒼太とお亮を見て、そしてシロの顔で止まった。
そして、なんとも言えぬ表情になる。
「早かったですね、めめ様。」
お亮が艶やかに微笑んで応じた。
「いえ、これが俺の仕事ですから…」
目黒はたどたどしく視線をそらし、道に倒れているターゲットを縛り上げだした。
下手人を二人ほど縛った所で、黄市と大介が走り込んできた。
「先の二人はふんじばって転がしてます。」
大介が元気に報告し、黄市がうなずきつつ残りを縛り始める。
こうして残りも全て縛り終わった頃、辰と橙がゆっくりと皆の元へやってきた。
「さて…全員揃ったことだし…」
お亮が、闇に紛れようとした、蒼太の腕を捕まえ…
「舘道場に向かうとしますか…」
黄市が、皆のいる位置から下がろうとした、辰の首根っこをおさえる。
「…ボク、何にもしてない…」
シロは、まだ両頬をふくらましたまま、への字口から小さくブツブツと文句を言い続けている。
そんな一番の大男を、この中で一番小さい大介が一生懸命に慰めていた。




