第5話 宅配司書が死ねない理由 ⑧
ウィスタリアの旧市街。
古典的な城壁が映り込むラピス河の南側は、光の街と化していた。
キャンドルライトが降り注ぐホットワインやレープクーヘン、スノードーム屋台の数々は、聖母マリアやクリスマスツリー、天使など、各店のシンボルを屋根に掲げ、色とりどりの電球の光球が連ねられている。
その一角。イルミネーションで飾られた大樹の下、木彫りでできたベンチとテーブルが集う休憩スペースに、ダイアンとラヴェンナの姿はあった。
ラヴェンナは同僚から貸してもらったという、ワインレッドのいつもより洒落たコートに身を包み、髪型もいつものハーフアップからすっきりしたシニヨンに変わっている。
光の街を前に上気した頬を向け、黙っている部下に、ダイアンは声をかけた。
「ラヴェンナさん。こちらへ」
市場で数々の品を差し出す度、遠慮し首を縦に振らない彼女には、用意してきて正解だったと思う。
胸元から小さな袋を取り出し、開きつつ隣に来た彼女に尋ねる。
「少し、耳に触れてもかまいませんか」
ぱっとウィスタリアの目が開かれる。
光の粒が瞳の中に満ちた。
「はい……」
両耳につけたイアリングは、イミションの小さな無数のダイヤに囲まれたやはりイミテイションのエメラルド。
あえて高価なものは選ばなかったが。
つけおわり、正面からラヴェンナを見たダイアンは満足げに微笑んだ。
「思った通り。よくお似合いです」
「は……い。あの。ありがとう、ございます」
俯いたウィスタリアがかすかに描く弧をダイアンはらしくもなく見逃す。
「……いえ」
どうしたのだろう。
彼女に倣うように自分も、戸惑っている。
数日前、険悪な空気になった気まずさに――そして、制服を脱いだラヴェンナのはっとするような華やぎに。どうすべきか、わからない。
『どうしても、社長と、クリスマスマーケットに行きたい、という希望があります……』
数日前の昼休み。ちょうど斜め前方の屋台で売られているひめりんごのようにほんのり頬を染めて、ラヴェンナがそう申し出てきた時には、なんだか身体の芯がじんとしてしまった。思わず黙っていると、
『お忙しいですよね。なら大丈夫です』
即座にそう言った後、組み合わせた両手を所在なさげに弄び、ラヴェンナは付け足した。
『……上司の方をプライベートなお誘いのためにお呼びだてするなど、やはり失礼だったでしょうか』
『はい?』
『申し訳ありません。わたしの性質を考慮し、装飾語を極力削りだいぶ妥協してシンプルに作っていただいた言葉らしいのですが』
この言葉で大概のことは察しがついた。
同僚たちの入れ知恵かと思うと多少落胆はしたが。
『すみませんでした。失礼します』
『待ってください』
それでも気が付けば、その手を引いていた。
『時間を作ります。ラヴェンナさん』
いつものように、ぬかりなく微笑んで。
『たまには二人で出かけるのも悪くはないでしょう』
「――気に入りませんでしたか」
「え?」
顔を上げるラヴェンナに、ごく小さく、ダイアンは告げる。
「ワットに言われたのです。けんかをした時、恋人同士の場合は贈り物をすることがあるらしいと、恋愛のハウツー本を懸命に示しながら」
「は、ぁ。あの、それでは。……それでは」
また頬を染め俯きながら、ラヴェンナは言った。
「わたしと社長は恋人同士、なのでしょうか」
長いまつ毛が閉じられまた、開かれ。
「どうも、そのあたりの規定はわからないのですが。ですがもしその、そうであったなら……」
熱のような、叫びだしたいような、それでいて言語化不可な。
猛烈な何かが込み上げてきて、それを遮るようにダイアンは言葉を発する。
「いえ、今のは。物の例えです。決して、ほのめかしとか、強制などではないですから」
「は、はい……」
どこか残念そうに彼女を俯かせてしまう。
自分は、相当戸惑っているようだ。
「社長」
彼女の顔に溢れる光の眩さにも、目をくらまされてしまうそうになる。
「ありがとうございます。……このようなものを社長に贈られると、少し痛いような、心地よいような、不思議な感覚に陥ります。何というのか」
まただ。
狂おしいほどの何かが体内に込み上げる。
「先日は刃向かってしまいすみませんでした」
モスグレーに雪の結晶の刺繍を施した手袋に包まれたラヴェンナの右手が、そっとその胸にあてられる。
「考えてみたのです。わたしは何故、あのお客様にこだわってしまうのか」
先を促すように、ダイアンはホットレモネードをラヴェンナに差し出す。
一口含んだラヴェンナは安心感を得たのか、語り出した。
「あの方はおっしゃいました。『家族も、仕事も名声も、健康な心身すら、ぜんぶ。ぜんぶ生きているうちに失ったとしたら?』」
ダイアンのボルドーの瞳が、かすかに眇められる。
「お客様のその問いにわたしは、答えられませんでした」
ウィスタリアの瞳がそっと伏せられる。
「何かを失う以前に、わたしには何一つありません。社長と、社長が与えてくださったこの仕事以外には」
「僕が与えたものではない。あなたが自力で勝ち得たものです」
即答すると、ありがとうございます、と、低い声で前置くようにそう言って、ラヴェンナは続ける。
「でも。大学でも何度も試験に落ちてようやく掴んだ資格。それだけです。取り立てて能力があるというわけではないのです」
「……」
できることなら。
何もないというその言葉を今すぐ否定し、その根拠を説きたい。
「家族もおりませんし。恋人も」
名声や富に関しては興味すらない、というところかと、ダイアンは胸中で独り言ちる。
そして、特に気になるのは。
「恋人が、ほしいのですか」
思えば年頃の娘だ。
そう思っていたとしても不思議ではない。
ところがその娘は、はぁとどこか間の抜けた返答を返してきた。
「同じ質問をプルさんやスウィーティから受けて、考えてみました。――もし、そういう存在がいたとしたらわたしは困ると思います」
「困る?」
「会話といえば本の話しかできません。デートもしくはお茶というのは、ただひたすら、この脳に刻まれている書物を暗唱すればよい、というのとはわけが違うらしいですし」
なるほど。
育てた身としては複雑な笑みがダイアンの口元から零れ出る。
「それは、そうですね。会話というのは一方向には成り立たないものですから」
ラヴェンナはこくり頷く。
「最近、感じ取るのです。そのような特性ゆえ人から恋人にと望まれないわたしは。世間にとって市場価値が低いということでしょうか」
「――ラヴェンナさん」
ついに、彼は口を開く。
おそらく彼女にそう思わせるのは。恋人云々は年頃の女性らしいきっかけに過ぎない。
自分の命の価値が低いと。
そう思い込んでしまう扱われ方をした過去が、この娘にはある。
それは少なからずこの世に存在していて。
「――何をおっしゃるかと思えば」
打ちひしがれ、そのことに気付かずにいる彼女に、彼は笑いかけた。
「しかし正直ほっとしました」
気まぐれのように、ホットワインの入った紙コップをくゆらせながら。
「はい?」
オレンジやレモンの皮の入ったガーネット色の液体に、ボルドーの瞳がじっと注がれる。
「近頃の報告書。特にあなたが作成したブックトークの原稿を確認していてしばし仕事の手が止まることがあります」




