表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/94

第2話 宅配司書と劇作家 ⑰

 ほのかに灯る街灯に、ショーウインドーのヴェチアングラスが、華やかな仮面や衣装が、きらめく中。

ヴェネチアの小路の奥にある小劇場での小さな夜公演。

 上品な初老の夫人が観劇を終え、そっと石畳の道に出てきた。



 とある恋人たちの優しい物語。

 設定自体はありふれているがそこには、他の作品にない珠玉の旋律や斬新な台詞に満ちていて。

 非常に満足度の高い公演だったと、彼女は目じりをぬぐう。

 彼女の胸に灯った明かりは、舞台のせいだけではなかった。

 隣の席に座っていた、若く美しい人とお喋りした。

 セピアのハーフアップの髪を今風に束ねて。彼女は微笑んで、演目について語ってくれた。

 いくつもの見どころを的確に押さえ、核心は聴き手に委ねるような、上手な予告が、予想外に楽しかった。

 開演直前に、所用を思い出したと言って、彼女が席を立ってしまったことだけが、実に残念だったけれど。

 きっとまたどこかで会えるかもしれない。そんな予感が夫人を満たしていた。だって。

 ――あの人の作品を、あんなふうにすてきに語ってくれた方だもの。

 一人ほくほくと微笑んで、さて、帰途につこうと一歩踏み出した、そのとき。



「落とし物だ」



 耳に馴染んだ――だが、聴かなくなって久しい声がして、彼女は振り返った。

 目を疑った。

 気難しい皺の刻まれた目。白髪の混じった灰色の髪。

 この劇を作った人。そして。

「読む気があるのなら――受け取ってくれたらいい」



 観劇の最中に落としたらしいゴールドのイアリングと、次いでメモ用紙のような紙を差し出す人。

「おせっかいな若者にそそのかされてな。書くはめになった。本当の気持ちとやらを」

あさっての方向に目を逸らし、言い訳のように。

 夫人の夫であるその人は、呟いた。

「公表用でない、拙いものだが」

 最後の言葉だけ、まっすぐに目を見て、その人は言った。

「お前だけに宛てた、詩編だ」

 そうして。

 昔のように、照れ臭そうに、首筋を掻いた。

「美しいものとは程遠くて、すまんな」

 呆然と、夫人はそれを受け取る。

 なるほど。

 言葉も、紙も、飾り気一つない。

 女性に宛てたものなのに。

 曇りゆく視界の中、彼女は目を細める。

 粗末な詩編は握りこまれさらに貧相になる。



「もしも」

 不安定な咳払いを数回。

 彼は言を継いでいく。

「次にまたあのフェニーチェ劇場で、公演できる日が来たら。観にくる気はない、かね。まぁ、ひどく劇場側に嫌われてしまったし。そんな日は永遠に来ないかもしれんが――」

その言葉が終わらぬうちに、紙ごと夫人は彼の手を握った。

 夫の、グリッサンドーニその人の目が、大きく見開かれる。


「行きます」


 生き抜いて、愛しぬいた後の。

 血の涙を流しながら彼女は笑う。

「必ず。行きます」

 人生に降る雨は残酷で。

 紅の洪水の跡に、牙もツメも持たずに生まれた無力な獣は強く、あたたかな皮膚を手にする。

 その証拠に、彼女を握り返してきた天才の手はこの上なく暖かかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ