第2話 宅配司書と劇作家 ⑰
ほのかに灯る街灯に、ショーウインドーのヴェチアングラスが、華やかな仮面や衣装が、きらめく中。
ヴェネチアの小路の奥にある小劇場での小さな夜公演。
上品な初老の夫人が観劇を終え、そっと石畳の道に出てきた。
とある恋人たちの優しい物語。
設定自体はありふれているがそこには、他の作品にない珠玉の旋律や斬新な台詞に満ちていて。
非常に満足度の高い公演だったと、彼女は目じりをぬぐう。
彼女の胸に灯った明かりは、舞台のせいだけではなかった。
隣の席に座っていた、若く美しい人とお喋りした。
セピアのハーフアップの髪を今風に束ねて。彼女は微笑んで、演目について語ってくれた。
いくつもの見どころを的確に押さえ、核心は聴き手に委ねるような、上手な予告が、予想外に楽しかった。
開演直前に、所用を思い出したと言って、彼女が席を立ってしまったことだけが、実に残念だったけれど。
きっとまたどこかで会えるかもしれない。そんな予感が夫人を満たしていた。だって。
――あの人の作品を、あんなふうにすてきに語ってくれた方だもの。
一人ほくほくと微笑んで、さて、帰途につこうと一歩踏み出した、そのとき。
「落とし物だ」
耳に馴染んだ――だが、聴かなくなって久しい声がして、彼女は振り返った。
目を疑った。
気難しい皺の刻まれた目。白髪の混じった灰色の髪。
この劇を作った人。そして。
「読む気があるのなら――受け取ってくれたらいい」
観劇の最中に落としたらしいゴールドのイアリングと、次いでメモ用紙のような紙を差し出す人。
「おせっかいな若者にそそのかされてな。書くはめになった。本当の気持ちとやらを」
あさっての方向に目を逸らし、言い訳のように。
夫人の夫であるその人は、呟いた。
「公表用でない、拙いものだが」
最後の言葉だけ、まっすぐに目を見て、その人は言った。
「お前だけに宛てた、詩編だ」
そうして。
昔のように、照れ臭そうに、首筋を掻いた。
「美しいものとは程遠くて、すまんな」
呆然と、夫人はそれを受け取る。
なるほど。
言葉も、紙も、飾り気一つない。
女性に宛てたものなのに。
曇りゆく視界の中、彼女は目を細める。
粗末な詩編は握りこまれさらに貧相になる。
「もしも」
不安定な咳払いを数回。
彼は言を継いでいく。
「次にまたあのフェニーチェ劇場で、公演できる日が来たら。観にくる気はない、かね。まぁ、ひどく劇場側に嫌われてしまったし。そんな日は永遠に来ないかもしれんが――」
その言葉が終わらぬうちに、紙ごと夫人は彼の手を握った。
夫の、グリッサンドーニその人の目が、大きく見開かれる。
「行きます」
生き抜いて、愛しぬいた後の。
血の涙を流しながら彼女は笑う。
「必ず。行きます」
人生に降る雨は残酷で。
紅の洪水の跡に、牙もツメも持たずに生まれた無力な獣は強く、あたたかな皮膚を手にする。
その証拠に、彼女を握り返してきた天才の手はこの上なく暖かかった。




