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第2話 宅配司書と劇作家 ⑯

 盛りの季節に成長を遂げたレモンが収穫期を迎える。

 ヴェネチアの夏ももう終わる。

 鮮烈なオレンジのグアバジュースを手にグリッサンドーニの私室に入ってくる女がいた。

 依然としてラヴェンナは彼の元に健康的なジュースを届け続けている。



「業務は終わったのだろうが。とっとと出ていけ」

「はい。ブックトークは済みました。ですが、会社に残業許可もいただいたので」

 崩さぬ笑みでそんなことを言うのだからやはり、案外したたかな精神の持ち主かもしれない。

「まだお客様のご意見ご感想を伺っておりません」

「……あの、勝手な本の紹介を聴いて、思い立ったことがある」

 改まるように、ラヴェンナはその場に立膝をつく。

「拝聴します」

「現実世界で、わたしが喋りたかったこと」

 ふいにグリッサンドーニはペンを止めた。

 その下にあるのは譜面でも、プロット用紙でもなく。



「今わたしが書きたいのは曲でなく、手紙……なのかもしれん」

 そこに書かれていたのは、一片の詩であった。

 ありふれた不器用な夫から、去っていった妻に宛てたもの。

 まだ仕事が軌道に乗っている時、これが片付いたらどこかへいこうと、気まぐれにそう呟いたことがあった。

 それを大事に拾った妻はずっと計画していた。

 なのに、この身体は病気になった。




 本当は、優しくしたかった。



 目がしらに熱いものが込み上げてきて、柄にもなく、グリッサンドーニは雇った宅配司書から顔を背ける。

 だが目を背けるほどに、心の声は溢れ出した。

 一番大切なきみが、僕を恐怖の目で見て。

 それでもわかろうとして、何度も躓いて。

 その度僕はきみを怒鳴り散らして。

 怒鳴りながらずっと泣いていた。

 とても、辛かった。

 そのうちきみも疲れ果てて。

 豪邸には僕の抑えられない暴言だけが、響くようになって。

 きみはとうとう、いなくなった。



 どうして。どうして。

 人はなぜ、優しくなれないの。

 神様。

 人を作ったのがあなたなら。

 優しい顔をさせてよ。

 大事な人の前でくらい。

 優しい顔をさせてよ。

 ただ怖がりで悲しいだけの生き物なのに。

 誰も優しくさせては、くれない。



「伝えられていなかったっ、ことが、ある」

「はい」

「だからっ、妻に、手紙を書こうかと、思うんだが」

 ぐしゃぐしゃになり、栄光ある作曲家の体面など形無しの顔で、彼はそれでも、言葉にした。

 五十を超えた男の情けないみじめな姿にも。

「素晴らしいと思います」

 宅配司書は満開の笑みで応える。それどころか。

「少し、拝見してもいいですか?」

 身体を傾けそんなリクエストまでしてくる。

盛大に鼻をかんで、グリッサンドーニは頭を掻いた。

「いや、からきしだ。オペラの戯曲となればどんな情熱的な台詞だって書けるのに。

情けないものだ」

 あら、と解せないように彼女は首を傾げる。

「こんなに饒舌に書いてらっしゃるのに?」

「え」



 そのしなやかな右手が指示したのは、グリッサンドーニの手元。

 大作曲家は、狼狽えた。

「ちょ、ちょっと待て貴様! 深夜に酒に酔って書いた、こんなたわごとみたいな詩を?

自分の世界に浸りまくって、最後なんか幼子の口調になっているのだぞ。どこの世界の女性が、夫からこんな情けないものをもらって歓ぶっ⁉ 阿呆かお前は!」

またとない天才で、それでいてどこにでもいる年を重ねた幼子に、黙ったまま宅配司書は微笑む。

「ずっと言いたくて。でも言えなくて。よどみのように、あなた様を蝕むほど、強い言葉、なんですよね」

「……」

 そんな司書を前には、屈強な男も、黙り込んでしまう。

「今こそ奥様に、伝えるべきです」

「……」

 かつての、そしてもしかしたらこれからの。

 偉大な作曲家は母親に諭された従順な幼子のようにこっくりと、頷いた。


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