第2話 宅配司書と劇作家 ⑪
邸宅に着くと、グリッサンドーニは放心したように私室の中央に座り込んでいた。
跪き、ラヴェンナは応接間をひっかきまわして探し出してきた錠剤を、差し出す。
「お客様。これを」
ぱしりと、すげなく振り払われても、ラヴェンナの手はそれを離さなかった。
「飲まないと危険です」
「嫌だ……嫌だ!」
錠剤を捕らえる作曲家の瞳孔は震えていた。
「そんなものもう飲むものか!」
一喝の後、グリッサンドーニは幼子のように頭を抱える。
「薬を飲むと書けなくなる。頭がぼうっとして、何も浮かばなくなって」
恐怖に打ちひしがれ、蚊の鳴くような声を出すかと思えば、ぎろりとした睨みをきかせて、感情を爆発させる。
「わかっている。わかっているぞ! お前もわたしに書かせまいとしているんだな」
「いいえ。その時がきたら、また曲を書いてください。そう切に願っています」
「嘘をつけ! みんなそうだ。記者も評論家も口をそろえて、調子のいいことばかり言って、雑誌には酷評を載せる。少しばかり。少しばかり調子が悪い時を、容赦なく掘り建てて! 悪魔、悪魔の手先め!」
刹那、ラヴェンナは、グリッサンドーニを抱きしめた。
幼子をあやすように、言い聞かせる。
「身を削りすぎたんです、お客様」
息を呑んだ狂人は一瞬、大人しく抱かれるままに身を縮めた。
「貧しい人々に自らの黄金を与えるため、銅となり下がった王子の像を知っていますか」 オスカー・ワイルドの『幸せの王子』を、教養ある彼が知らないはずない。
「その通りです。どんな偉業を成し遂げた人でも、使い物にならなくなったら表舞台から撤去されます」
赤子のような慟哭。後にすすり泣きが広すぎる部屋に空しく、響いていく。
世界という舞台で戦った戦士の背を、ラヴェンナはそっと、撫でた。
「敗北ではありません。戦略的措置です。どうぞ身を喰われないために、一時的にこの世の法則を呑んでください」
精神医学上、異常者とは正常からかけ離れた距離で測るという。
「あなた自身が、取り壊されないうちに。どうか休んでください」
溢れんばかりの何かをこの世の枠に少しだけ押し戻すそのツールを今だけ、宅配司書は差し出した。
「そうすればまた、世界と戦える時がきます。必ず」
そう、今だけ。——束の間だけ。
その言葉に効力があったのかどうかはわからない。
だが数分の放心ののち、かつて過去の時代から音楽を発掘した作曲家は、その錠剤を喉に流しこみ、目を閉じたのだった。




