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第2話 宅配司書と劇作家 ⑦

 季節が変わり、グリッサンドーニの庭はライムイエローに色付いた。

 見渡せる運河の青も心なしか一段濃く鮮やかに映える気がする。

 春が過ぎ、盛りの夏が到来してようやく周囲と馴染めそうになったその時、世間は氷河期の顔をすることがある。

 ラヴェンナ・ヴァラディとロレンツォ・グリッサンドーニの関係にも、氷の裂け目のような瞬間は突如訪れた。



 曲線を描いたレモンの皮を飾ったショッキングオレンジの液体が入ったグラスを手に、ラヴェンナはグリッサンドーニの私室のドアをノックした。

 創作の手助けにと隙あらばワインを手にするグリッサンドーニにと、ラヴェンナが市場の人にレシピを聴いて作ってみた、いちごとグレープフルーツのジュースである。味見をしたら、我ながらすっきりした喉越し。気に入ってくれるといいのだが。

 扉を明けた一瞬、鮮やかな色のドリンクが大きく傾いだ。



 グリッサンド―ニがピアノの蓋を開けたまま、鍵盤に身体を投げ出し横たわっている。

 浅い呼吸と口をすぼめた表情。それに――手元から床に散乱した筆と楽譜で、単に眠っているのではないことは明らかだ。

 青ざめたラヴェンナは駆け寄り、その背に触れた。

「グリッサンドーニ様! お客様! お気をたしかに!」

 寝起きの瞳でしばしラヴェンナを見つめ。

 グリッサンドーニは、氷を裂くような悲鳴を発した。

 さんざんに頭を振り乱し、ただ。



「書けない。書けないんだ……!」

 故障した蓄音機のように、単一のフレーズを反復する。

「曲も、あらすじも。なにもかもだ!」

 血走った焦点の合わない瞳で、手あたり次第楽譜を持ち上げては投げつけていく。

 ラヴェンナは異常事態を悟る。

 五線譜、ポートレート、花瓶。部屋にある物という物すべてを破壊しつくすように、作曲家は暴れ出す。ピアノすら持ち上げようとして、叶わぬことを悟った刹那、猛獣のように歯を噛み締め、その矛先は。



「宅配司書! お前のせいだ!」

とうとう彼はラヴェンナに、傍らにあった高級オブジェの皿を投げつけた。

 とっさに顔をかばい、停止しそうになる思考を、ラヴェンナは必死で働かせる。

「お前が無能だから、いい芝居が書けない! お前が、劇場主が、客が! ぜんぶ、ぜんぶだ!」

「グリッサンドーニ様」



 一歩、ラヴェンナが彼に向けて踏み出した。

 恐怖はある。

 激高した人物は何度目にしても怖い。だが。

 有無を言わせずラヴェンナはグリッサンドーニの腕を掴む。

 理不尽な横暴を前に、彼女は無力ではなかった。

「お気付きなく申し訳ありませんでした。お医者様から処方されているお薬はお持ちですか? 今すぐ――」



 薬、という単語に瞳をぎらりと光らせたグリッサンドーニは、つかつかと部屋の壁に歩み寄り、等身大の鏡をなぎ倒した。

 ガラスが砕け散る音が、派手に響く。

「お前もか! お前も、わたしが病人だと! 無能だなどとたわごとをほざくか!」

 こくりとラヴェンナは唾を呑んだ。

 激高した客には応対マニュアルがある。

 そして、少なからず経験もあった。

 今は目の前の人をどうにか落ち着けることが先決だ。

 意味の通らない言葉を立て続けに叫んだ後、グリッサンドーニは言った。



「フェニーチェ劇場」



 ラヴェンナは息を呑む。

 ヴェネチアにある有名なオペラ劇場の名だ。——彼が契約している、劇場。

「座長のアルペッジョ」

 憎しみを絞り出すようにそう言うと、獣が呻くように、グリッサンドーニは言った。

「奴に伝えろ。新作オペラの締め切りの期限を延ばせと!」

 グリッサンドーニは宙に向けた両手の指を曲げた。

 掴めない何かを、必死に掴もうとし、掴み損ね続けているように。



「わたしが病人だなどと! あいつも無礼を働いたんだ、それくらいして当然だろう‼」

 その後も彼は窓に本に家具にと、手あたりしだいに攻撃を繰り返した。



 ――落ち着いて。

 ラヴェンナの脳内に、愛しい人の言葉が響く。

『ラヴェンナさん』

 ――社長は。ダイアン社長なら、こんな時。

『非常事態の心得を覚えてください。いついかなる時でも忘れないように』

 彼からは、お客様から危害を加えられそうになった時には安全確保を最優先にと教わっている。

「行け! 行って貴様が命令しろ! 早く!」

『対処不可な場合は速やかに、その場を離れること。身の安全を最優先なさい』

「……かしこまり、ました」

 素早く礼をすると、ラヴェンナはその場を辞した。

 横暴の跡と狂人が支配するその場に、いとも惜し気な視線を残して。


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