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第2話 宅配司書と劇作家 ⑥

 ラヴェンナとグリッサンドーニを乗せた船は、ゆっくりと流れていく赤レンガの街々や、たゆたう水を中心に左右に連なる家々から零れるペチュニアやカレンデュラの花々といった景色を抜けると、大運河カナル・グランデへと漕ぎ出した。



 広大な水の広場に集った船頭と船客たちが手を振り、時折挨拶を交わす。

 この街へ来てから楽しむ余裕のなかった水の都の景色にラヴェンナは感嘆する。

 すれ違うゴンドラの乗客に手を振り返しながら、感嘆の吐息が、ゴンドラの上を滑り、流れる。



「ところで、グリッサンドーニ様」

 真新しい景色は、この先の旅路への関心を増幅させる。

「今日はどんなお店で、何をお求めになるのですか?」

 返ってきた返事は、

「ん。そう、だな……」

 ゴンドラのへりにもたれ険しく前を見つめたグリッサンドーニから放たれた予想外の逡巡の声に、ラヴェンナは目を丸くする。

「もしかして」

 きらり、真昼の陽光が、船のへりの金縁に訪れる。

「……煮詰まったわたしにこの景色を見せてくださるために」

 うおっほ、ごほんと、自他ともに認める気難しさを誇る作曲家は盛大に咳込んだ。

「うぬぼれおって。わたしが外に出たかっただけだ」

 くすくすとラヴェンナは笑った。

「はい。そういうことにしておきます」

「ふん」



 視界に影が落ちたかと思うと、ゴンドラはサン・マルコ広場の大鐘楼から大きく遠ざかり、城か貴族の別邸のような小じゃれた造りのリアルト橋をゆっくりとくぐりゆく。

 絢爛な建築物におかまいなしにその合間を運河は滔々と流れていく。

「グリッサンドーニ様は、どんなオペラをお作りになりたいのでしょう。わからなくなってしまいました……」

 気ままな水の流れに投じたグリッサンド―ニの視線がふいに、羨望を帯びたような気がした。

「わたしが初めて見た演劇は、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』を原作にしたものだった」

 ウィスタリアの瞳が見開かれ、色素が薄まる。



「舞台上のヒロインに恋をしたのさ」



 くっと皮肉に歪めた笑みが、水上に落ち、溶けゆく。

「彼女は言ったんだ。『自分の考えることに靴の重みを乗せない』と」

「……はい……!」

 面積が広がり薄まったウィスタリアを陽光がきらめかせる。

 奇しくも東洋には地に足をつけるという言い回しがある。

 働く。食べる。寝る。生活する。

 ナジャの言う『靴の重み』とはそれらの象徴だ。



「そういったこととは両立しえない何かに、憑かれたように焦がれる人種がいます」

 緩やかな大河の中、儚げな女は纏う雰囲気に似ず、情熱的に微笑む。

「グリッサンドーニ様がその一人であられるように」

 手を額の上にかざし、景色を仰ぐと、優雅に水上をたゆたっていたオオバンが、急激に高度を上げて飛翔していく。

 黒い身体に相反する雪のように白い後頭部が反射した陽光を投げかけてくる。

「……それを人は理想とか夢とか呼ぶ」

 ただしそれらには魔力性があり、とりつかれた人々は時として異常者と呼ばれる。

「わかる、気がします」

 うっとりとアメジストの石のような瞳を川に投じ、ラヴェンナは想いを馳せるように言う。



「わたしの初恋の人は、イワン・カラマーゾフでした」

 ゆったりと、グリッサンドーニは皺の刻まれた目を眇めた。

「ドストエフスキーか」

「はい」

『カラマーゾフの兄弟』。父親殺しを巡るドストエフスキー生涯最後の大作である。

 グリッサンドーニが落とした音のない笑いは珍しく、皮肉を含んでいない。

「犯人でもないのに、自分が父親殺しを犯人にそそのかしたんじゃないかと思い込み、錯乱していく人物じゃないか。お前も酔興だな」

 くるりと、細い顎がまるでアーテキレーションのように弾み、こちらに向く。

「まぁ。グリッサンドーニ様も、ご存知なんですか?」

 その女優のような端正な顔がぱぁぁっと輝いたのは、ゴンドラが橋を越えて差し込んだ陽光のせいだけではないだろう。

 ふいに顔を赤らめ、グリッサンドーニは咳払いする。

「舞台芸術と文学は切り離せない。一通り、名作と呼ばれるものには目を通したよ」



 ウィスタリアの目に長いまつ毛を幾度か落とした後、ふふっとラヴェンナはおかしそうに笑う。

「グリッサンドーニ様も、人のことは言えませんよ。ナジャも物語の中で発狂します」

「ふむ。これは、一本取られたかな」

 認めると、グリッサンドーニはゆったりとゴンドラのへりにもたれる。

 高邁な精神はどこか彫刻に似ている。

 至高にいたるために削り、削り、ぎりぎりまで身をすり減らしていく人々というのが存在する。

 いつしかラヴェンナは目を閉じ、胸に手をあて滔々と語る。



「わたしの初恋の君……イワン様は言うのです」

 活字の海を吸いつくし、咀嚼し、新たな光に透かしてできた、彼女自身の言葉を。

「『この世にいつか終末がきて、神が全人類を救うというのなら、虐待を受けた子どもたちの苦しみはどうあがなってくれるんだ?』」

 それは果たしてグリッサンドーニに向けたものであったか、それとも。

「『そんなまがいものの天国の切符なんざ、僕は謹んでお返しするよ』」

 自らの言葉によって酔いしれ、漂う。

「はぁ。なんて、なんてかっこいいんでしょう……!」

 人間の最上の者に触れ、恍惚となった魂。



「なんと言うのでしょう。泉のような澄んだ精神のその根底にあるもの。それは、世界の本質を見ようとする目だったり、あるいは。深い深い、良心の呵責だったり……」

 いずれにしろ、というその目が。

 束の間の雨の日に咲く儚い小花の色を宿した目が、水の上の天を見上げた。

「心を病むその人の描写の中にわたしは、眼前にそびえるエベレストのような尊さを見ました」

 馥郁たる郷土料理に舌鼓を打った時のような、深い満足の吐息。



「お前は、変わっているな」

「そうですか?」

「うむ。――だがな」

 ふいに見つめた水面には浅からぬ底がある。

「研ぎ澄まされ過ぎた精神は時に追い詰められ、周囲の人々をも傷つける」



 グリッサンドーニは晴れ上がった豊かな青空の下の水面に、一人の女性を描く。

 長い飴色の髪を纏め、ヴェネチアン・グラスで作った黄色いイアリングをいつも耳に揺らしていた。

 気付けばふんわりと隣で微笑んでいるような、大人しい女性。そして。

『ごめんなさい』

 二年前、自分の元から去っていった女性がいた。

『ごめんなさい』

 当たり散らして、傷つけて、愚弄して。

 夫婦生活そのものをめちゃめちゃにしたのは自分なのに。

 最後まで不満一つ漏らさずに。



『ごめんなさい、あなた。わたしはもう、ここには、いられないの』

 詫びの言葉と、我慢に我慢を連ねた末の涙だけを残して。

 ゴンドラに揺られながら、ふいに、グリッサンドーニの口から言葉が漏れる。



「誰もが、とはいわなんだ。もし、もう少しだけ多くの人間が、お前と同じ見地を持てたならば、あるいは……」

 だがその呟きはあまりに小さく、不明瞭で。

「グリッサンドーニ様、何か、おっしゃいましたか」

 笑顔のままぱちくりと美しい瞳をまたたかせる宅配司書に、彼は気づまりな咳払いを返すだけだった。


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