第2話 宅配司書と劇作家 ③
「社長、お客様を、怒らせてしまいました……」
あてがわれた寝室。妖精の描かれた鏡台に、バラの彫刻のクローゼット。
グリッサンドーニは一人暮らしと聞いていたが、以前女性が使っていたのだろうか。
小花を散らしたデザインのシーツの中、スマートフォンを抱えラヴェンナは丸くなった。
『それで、グリッサンドーニ様にはなんと?』
スマートフォンから聴こえてくる声に、ますます背中のカーブを急にする。
「極めて個人的な事情ゆえ、説明が困難で。ただ音楽鑑賞が不得手な体質とだけ。ですのでご納得いただけたかどうかは……」
閉じた目から涙をどうにか押し留めているのだけが救いだ。
劇音楽の原作なんて楽しそうと、必ず成功させてみせると意気込んできたのに、なんとも、情けなかった。
「……震えて、くるのです。音楽を聴いていていると」
『僕も、図書館のみなさんも、今回の依頼へ出向くあなたを止めたのは、この事態を予測してのことだったのです』
「……はい」
『ラヴェンナさん』
改まった上司の呼び声にラヴェンナは閉じた目をよりいっそう強く瞑る。
その後数秒の沈黙は身体が凍るような気がした。
『今回は帰っていらっしゃい。代わりの司書を手配します』
だがその声は、雪解けよりも暖かくて。
「社長……」
だからなおさら、哀しかった。
半ば感情を失くした機械のように、ラヴェンナは発する。
「わたしは、ご不要、ですか」
今度は、沈黙はなかった。
『必要だから言うのです。無理を通してあなたに壊れられたら、ウィスタリア私立図書館は大損害です』
「……」
説得のために言ってくれているのかもしれない。けれど。
長いまつ毛から窺えるウィスタリアが激しく、揺れる。
大切に、抱きしめるように、扱ってくれる。
それだけで、力が沸いてくる。
あたたかな湧き水のように。
しゃんとラヴェンナは顔を上げた。
「いやです」
電話の向こうの相手が一瞬、逡巡するのがわかった。
「グリッサンドーニ様は、兆しを見せてくださいました。ピアノの前に立ち、演奏を試みることで、わたしに仕事を任せてもいいという心の兆しを。まだ、わたしにできることが、あるはずです」
『ラヴェンナさん……』
「社長はいつもおっしゃいますよね。あなたにしかできない仕事をしなさいと。わたしは社長が思うほどふがいなくは、ないです」
気付けば寝台の上、立ち上がっていた。
端から見れば滑稽だが、その心地はもはや、舞台上の活劇で戦地へ赴く兵士だ。
困ったような呻きを少量、後笑いが一匙。
『わかりました』
ラヴェンナをこの世という舞台で光らせる魔手のような。
『ではラヴェンナさん。クルーを一つ、差し上げます。――繰り返しにはなりますが』
その人の声は、こう続けた。
『お客様が挙げられるタイトルの本を提供することが司書の仕事ではありません。その要望を洞察し時に別のジャンルからも、あらゆる読書体験と知識を駆使し、書物の収集にあたります』
「――はい」
寝台に直立したままラヴェンナは、目を閉じ拳を右胸にあてる。
『あなたでなければ差し出せない。そんな本をご提供しなさい』
何度も差し出されたその言葉はその度、新たな鮮度を持ってラヴェンナの視界を潤す。
『その手の震えがあるから、ふいに触れることができた。そんな本があるはずです』
深く深く頷き、魔術に敬意を示し――ラヴェンナはそっと液晶画面に触れた。




