英知の書
硬い声で告げられたその言葉に鉄は直ぐには反応することが出来なかった。ただ脳内で何度も繰り返される。
――シンズの手に堕ちた。カナンが、シンズの手に堕ちた……?
「何、言ってんですか? シンズの手に、って……、それって……っ」
掠れた声でやっと言えたのはそれだけだった。それきり困惑を通り越し、混乱を露わに絶句した鉄に結木は背を向けた。
「中へどうぞ。江川君、君に話があります」
そう言った結木の表情は陰っていて見て取ることはできない。応えを待たずに扉の向こうへと消えて行った神父の後を、鉄は拳を握りしめてから追った。
外よりも僅かに温度の低い教会内。
一歩踏み入れた途端、乳香の香りが鉄を包み込む。点々と灯された蝋燭の灯が囁くように小さく揺らめき、踏み出す度に足音がドーム型の天井に反響する。
ステンドグラスから差し込む光を浴びて淡い金色に浮かび上がる十字架。
結木はまるで神と対話しているかのように、その手前に設置された説教台の向こうで十字架を見上げていた。
祭壇近くで立ち止まった鉄のローファーの踵がカツンと音を立てた。
「何が、あったんですか?」
短い問い。
だが、鉄はなるべく一語一語を慎重に口にした。そうでなければ声が震えてしまいそうだった。
「カナンが姿を消したのは昨夜の事でした」
結木はそう言って振り返った。
「江川君も知っての通り、一週間前カナンが倒した男はシンズではありません。彼はシンズの操り人形に過ぎませんでした。しかし、カナンとの戦いに敗れ昏睡状態にあった彼の身柄を確保し調べた結果、我々は重要な手掛かりを得ました。江川君、男があの路地裏で何をしていたのか、知っていますか?」
「子供を……襲ってました」
自然と脳裏に少女の白く細い腕と、虚ろな瞳が蘇る。鉄は反射的に顔を顰めた。
「そうです。最近子供が失踪する事件が増えているのは江川君も知っているでしょう? 我々はこの事件はシンズの命令を受けた、彼の手によるものだと考えています」
「シンズは子供を狙ってるってことですか? でもなんで……」
「詳しいことはまだ残念ながら分かっていません。シンズ当人に聞くか、彼が目を醒ますまで待つしかないでしょうね。動悸はどうあれ、状況から見てこの失踪事件の主犯はシンズで間違いないでしょう」
鉄が小さく頷くのを待って結木は続けた。
「我々は彼が目を醒ますのを待つ一方、引き続き全力を尽くしてシンズの行方を追っていました。そして三日前、我々は更なる手掛かり得ました。天啓が示されたのです」
「天啓……?」
「神が我々を導くために与える啓示、お言葉の事です。――この、英知の書を通じて」
そう言って結木はおもむろに右手を高く掲げた。
薄暗い礼拝堂内、十字架から落ちる淡い金色を背後に受け、片手を掲げる結木の姿は神々しく鉄の目に映る。
鉄は目を見張った。
結木の掲げられた右手のひらが青白く輝き始めたのだ。そして開かれた彼の手のひら一杯に円形の文様のようなものを認めて鉄は目を細めた。
――industria
文様の中にある幾何学な柄。
そこに唯一見て取れた文字。意味も、どう読むのかさえも分からない。
だが一つ。
鉄はその本が発する光によく似たものを知っていた。カナンの純潔の槍だ。
やがて結木の手のひらから同じように青白く輝く何かが現れる。
それは本だった。恐らくA3サイズはある、淡く青白く輝く厚めの本。
内に吸収するように本は徐々に光を失っていく。輝いている時は見て取れなかったが、その本は深い緑色の装丁の、いかにも古そうな本だった。
「それは……」
その重たそうな本を手に、結木は表紙を指先で撫でる。
「英知の書です。神が我々を正しく導くために与えられた、神の力」




