結木の提案
鉄は久しぶりに緊張していた。
人の視線を感じる。そう言った類の理由からではない。
肉食獣がいる致死率九十パーセントのジャングルに何の装備もなしに入り込んでしまったような、身の危険、命の危険を感じての緊張。
それもそのはず。今この瞬間にも、鉄は自らの足で超危険人物に喧嘩を売りに向かっているのだ。
そう、鉄は久方ぶりにミッションに臨んでいた。
妙な高揚感と戦慄。しばらく感じていなかったこの感覚と、ターゲットに対する今までにない極度の畏怖に鉄は武者震いを禁じ得ない。そんな自分自身に引き攣った頬で苦笑しながらも、鉄はグッと右手を胸にあてた。
(大丈夫。いつも通りだ。いつも通り)
言い聞かせるように繰り返す。
今回のミッション。そのターゲットは四人目のシンズと目されている男だった。
つい昨日ケーキ持参で結木を、いや、本当はカナンを訪ねて聖教会へ行った時、結木は提案した。
「実は先日ようやくシンズと思われる人物が特定できたんです。明日にもミッション遂行を予定しているんですが、カナンは一人で行くと言っていましてね。先鋭のビリーバーがフォローに就くはずが、困ったことにカナンは首を縦に振りません。堕ちたばかりでも相手はシンズです。いくらカナンが神の加護を受けているからと言っても、私としてはカナン一人を行かせるのはとても、とても心配なんです」
とてもを強調し胸の前で手を組んだ結木は眉根を寄せる。その瞳は心なしか潤んでいるようにも見えた。
「そりゃあ、そうですよね。俺だって、心配で――」
「ですよねっ! 江川君はカナンを放ってなど置けませんよね?」
ズイと身を乗り出して結木は鉄の同意に念を押す。鉄は身を引きつつも、ハイと素直に相槌を打った。
「では決まりです! カナンのフォローは江川君にやってもらいましょう」
「そうですね……って、えっ、俺ぇっ!? いや、俺じゃあ勤まらないんじゃあ」
「ご心配には及びません。前にも言ったでしょう。江川君、君には才能があります。それに今回は基本的にはセイントであるカナンとシンズとの一騎打ちになるでしょう。フォローと言っても、江川君はその戦いぶりを見届ければいいだけです」
「でもカナンが何て言うか……。他のビリーバーのフォローは嫌だと言っていたんですよね?」
「その通りです。でもそれも問題ありません。何せカナンは江川君に頭が上がりませんからね。カナンのフォローに就けなければ自ら命を絶つと江川君が半狂乱で願い出てきたと言えばカナンは必ず了承します」
やけに自信を漲らせている結木とそれに唖然とするしかない鉄。
や がて鉄は素朴な疑問を口にしてみた。
「あのー、それでカナンが断った場合、俺の命はどうなるのかなー、ナンテ」
「大丈夫! 実は既にそういうことでカナンと話は着いているんです」
「ェ……」
(くぉいつっ……)
胸を張って得意げに言い切られ、鉄はもう何も言えない。いや、言うまい。口を開けば呪いの言葉を吐いてしまいそうだ。
仕事が早いのはいいことだ。一般的にはもちろんそうだ。賛成する。大賛成だ。
だがいつの間にか知らぬところで自分の命が駆け引きの材料にされていたのは大いに癪だ。
しかし、鉄は否とは言えなかった。詰まるところ、カナンを一人で行かせるよりはいい気がした。
不貞腐れている鉄を横目に結木は思い出したように続けた。
「あぁ、もしかしたら分かるかもしれませんね。カナンが塞いでいるのはなぜなのか。または、カナンがセイントになったきっかけは何だったのか、とかね」
はっとする鉄に結木は白々しく付け加えた。
「ま、どうしてもやりたくないと言う事でしたら、それでもいいですよ。無理やり、は性に合いませんから」
「…………やりますよ」
(どの口が言うか)
悪態の代わりにぼそりと呟かれた答えはしっかりと腹黒神父の耳に届いていたようだ。結木は満足そうに微笑んだ。
今思えばあれは提案ではなく、脅迫。もしくはシナリオ通りと言うやつだった気がしないでもない。
だがここに来たことに後悔はしていない。そう思いながら鉄は横を歩くカナンにちらりと視線を投げる。
目的地に着くまで、カナンは一言も話さなかった。ただ学校を一緒に出る時、切なそうに眉を寄せて鉄を見つめ一言、「行きましょうか」と言って促しただけだった。
余計な事をしてしまったかもしれない。迷惑だと思っているかもしれない。嫌われてしまうかも、しれない。
しかし、何もせずにただ手をこまねいていることはできなかった。鉄にはもう耐えられなかった。
鉄は結木に言われた時間が来たのを腕時計で確認し、男が現れるはずの裏路地に入る。
ここからどうにかして、男をカナンの待つ人気のない無い空き地へと誘い込まなければならない。恐らく鉄のトラブル体質を持ってすればそれは難しくないだろう。
だが何故か先ほどから呼吸が浅く、手のひらがジトリとしている。シンズとの対面を前に、どんなに時間をかけたところで、そして深呼吸を繰り返したところで、ごくごく普通の高校生・江川鉄の心の準備が整いきるわけがなかった。




