鉄の沽券
「どしたのっ!?」
「あ、足に、何か――」
そう言って二人が下げた視線の先。
カウンターの下、カナンの左足元にうずくまっているズングリムックリ。その塊はのっそりと立ち上がると、カシカシと音を立ててカウンター下から出てきた。
「……犬?」
(異様に貫録のあるこの風貌。どこかで……)
「あー、これがブ――」
「ブルちゃんっ!」
鉄が言い終える前にカナンはヒラリと席から降り、身を屈めていた。その頬は僅かに朱色に染まっている。
カナンは犬が好きだった。
すっかり忘れていたが、ここに来ることになったのは、この看板犬・ブルちゃんを見に来たようなものだったのだ。
カナンはおずおずとブルちゃんに手を伸ばす。ブルちゃんは垂れ目(というか瞼の肉が垂れているだけだが)で差し出されたカナンの指先を一瞥すると、ぷいと体を反転し、また爪で床をカツカツ言わせながらキッチンへと向かってしまった。
「なんだあの犬、かわい――」
「かわいぃっ」
「えぇ?」
今のは完全に可愛くなかった。確実にツンツンだった。そう突っ込みかけたが、半ばウットリとブルちゃんの後姿を見送るカナンを見て、それは野暮だと分かった。
そしてそんなカナンの姿を見て鉄は思わず小さく吹き出してしまった。すると頬に赤みを残したままカナンが俯く。
「あっ、ごめんなさぃ。私ったら……」
「いやいや! カワイイと思って……って、っ」
(なんてことを言ってしまったんだ! 聖女に向かってカカカ、カワイイだなんてっ)
つい自然な流れで口から出てしまった失言。不自然に息を詰め、無言でシドロモドロになっている鉄。一方カナンは「フフ」と微笑む。
「そうですよね。ブルちゃん、本当にかわいい」
「え、ブルちゃん? ……あー、確かにっ! ブルちゃんすっごいカワイイ、激カワっ!」
ハハハと誤魔化しながら心底ほっとしていると、ミサさんがキッチンから出てきた。
「どうだった、私の作ったケーキ?」
「とても美味しいです」
カナンが答えるとミサは嬉しそうに笑った。
「良かったぁ。実はデザートの売り上げがなかなか上がらなくって。うちは元々有名レストランで働いてた店長の作るカフェ飯がメインではあるんだけど、それでもね」
肩を竦めながら言うミサ。「なんでかしらねぇ。味には自信あるんだけど」とぼやいている。
「でもミサさんの作ったケーキ、とても美味しかったです。ここのお料理はまだ食べたことはありませんが、私はデザートを食べにだけでも、またここに来たいって思います」
「本当に?」
「はい」
笑顔で大きく頷くカナンを見て、ミサは一瞬目を見張って安堵とも、嬉しさとも言えない笑みを浮かべた。
「……ありがとう」
(カナンはすごい)
鉄は率直に思う。
聖女だから、ではない。むしろカナンだから聖女になれたんだろう。そう感じる。それは街中でも、学校でも、そしてここでも垣間見える彼女の本質によるものだ。
カナンは人を優しさと素直さで包んで、安らぎを与える。それこそ聖母のように。
「ミサちゃん、そろそろ明日の仕込み始める? あぁ、ゴメン。接客中だった?」
キッチンから顔を出した男は、鉄たちの姿を認めて小声になった。
背の高い、バレーボールでもしていそうな爽やか系の男だ。すらりとした体躯にミサと同じ、黒いエプロンがよく似合う。
「あぁ、はい、すみません。こちら、カフェ・ハラヘリの店長、風間さん。で、この子達は私のデザート常連さんになる、えっと……」
言い淀んだミサの代わりに二人がそれぞれ名を名乗ると、風間は微笑んだ。
「羨ましいな、ミサちゃんもう常連さんがいるの?」
「何言ってるんですか、店長は既に常連さんがもう何人もいらっしゃるじゃないですか」
「そんなことないよー」
口を尖らせるミサに風間は目じりを下げた。
グイグイ引っ張る姉さん女房とそれに導かれる優夫。二人の関係図は見て明らかだ。いいコンビで微笑ましい。
「お、ブルもやっとお仕事再開かしら?」
そう言って目を落としたミサの足元にはいつのまにか看板犬・ブル。カナンの瞳が輝く。
「あの、そのブルちゃんはここで飼っていらっしゃるんですか?」
「あぁ、ブルは僕が飼ってるんだ。一人暮らしだから僕が仕事の間に誰も面倒見れる人がいなくてね。だったら看板犬にしちゃおうと思って。店にいれば僕の目も届くしね。あ、でもカフェに犬なんてイヤだった?」
「いいえ、大歓迎ですっ」
「それは良かった」
カナンに大歓迎と言われて風間はフフフと笑みを溢す。するとブルがミサの元を離れてカナンの傍へと歩いて行く。しかも先ほどとは違い、今度は自分からカナンの足首辺りに身をすり寄せた。
「珍しいねぇ、ブルが懐くなんて。ブルはかなりの人見知りなんだよ」
「本当ですね。バイトの子にもなかなか触らせないのに」
和やかにミサが風間に同意している前で、カナンは目を潤ませながらブルの頭を撫でていた。
(ちょっと、いや、かなり羨ましい。……なんて思ったことは秘密だ。男の、いや俺の沽券に関わるっ)
鉄はカップを煽って残りの紅茶を飲み干す。
「今度は是非ご飯も食べに来てね」
明日の仕込みに取り掛かったミサの代わりに、そう言って見送ってくれた風間とブルに手を振り、カフェ・ハラヘリを後にした鉄たちは結木の待つ聖教会へと向かった。




