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消したい過去

 水浸しの上履き。ゴミ箱に捨てられた教科書。クスクスと背後から聞こえてくる笑い声。

 息を呑んで目を開ければ、頭を囲んだ腕の間から机がのぞく。微かにクラスメイトのふざけ合う声も聞こえてくる。


(……居眠りなんかするんじゃなかった)


 鉄は息を吐いて、再び目を閉じた。

 あの頃の事を夢に見るのは実に久しぶりの事だった。

 忘れたい過去。大なり小なりあろうとも、それが皆無という人はいないだろう。

 しかし鉄の場合は少し違った。

 中学二年の約一年間。

 鉄にとって、あれは忘れたい過去ではない。消してしまいたい過去であった。


――そこまでしなくても……。


 忘れもしない。つい口から出てしまった、そのたったの一言。

 それが鉄の中学校生活劇的に変えたのだった。

 目立たないように、そして極力面倒事を避ける。そう努めてきた。

 常にトラブルに敏感でいる気の抜けない、それでも平和な日常から陰気で無知で、それゆえにひどく残酷な日々へ、と。


◆◇◆


 中学二年の初夏。

 通学時、ちゃんと歩道を歩いていたのに自転車にぶつかられそうになり、尚且ついかにもこちらが悪かったとでも言いたげに罵声を浴びせられたこと以外、いつもと変わらない、大きなトラブルもなかった放課後だった。

 あの日、日直だった鉄は日直日誌を担任に渡してから教室に戻った。既に皆、部活に向かったり、帰宅したりした後のようで、教室はやけにがらんとしていた。

 教室に入ろうとした時、中から声が聞こえた。誰かはすぐに分かった。

 クラスメイトの中でも常に中心にいるよう男子生徒・鹿沼。そして取り巻き達の愉快そうな笑い声が続く。

 教室のドアを開きかけて、鉄は本能的に思った。


(まずい……)


「誰だ!」

 身を引こうとした時には既に声を掛けられていて、鉄はこのまま聞こえなかったふりをして逃げようかどうか、迷った挙句仕方なくドアを開ける。

 案の定、教室内には鹿沼達と彼らに取り囲まれ、一人俯く男子生徒・田本の姿だった。

「なんだ江川かよ。あぁ、お前今日日直だったんだけ?」

「……うん」

 小さく頷いて足早に自分の机に駆け寄る鉄。出来るだけ、田本を視界に入れないようにした。

 だが荷造りをしている最中に、田本の足元に彼の物に違いない破られた教科書や、ひどく汚れた上履きを見てしまい、鉄は思わず顔を顰めた。それでも手は休めずに必要なものをカバンに入れる。

 鹿沼は破れた教科書を薄ら笑いながら踏みつけた。

「あぁーあー、これじゃあもう使えなくね? お勉強できないんだったら、お前学校に来る必要ないんじゃない? ね、ガリ勉君?」

 鹿沼の問いに取り巻き達がケタケタと笑って合意を示す。

 田本はよく勉強が出来た。教師に問われればまず間違った答えを言うことはないし、そして何より物静かだった。

 だがそれは、彼を思春期特有の憂さ晴らしの標的にするのに十分だったのだ。

 田本がいじめられるようになったのは進学と共にクラス替えも終わった二学年始まって、すぐの事だった。初めはただの小突き合いに見えたそれも、徐々に目に見えてエスカレートしていた。

「じゃれ合い」というには余に一方的な行為を、もちろん教師は知ることはなかった。一方で、生徒の間では周知の事実であった。

 何も言えずに俯いたままでいる田本を取り巻きの一人が小突く。バランスを崩した田本があっけなく尻餅を着くと、鹿沼達は大声を上げて笑った。

「ドンクサっ! お前さぇ、もうちょっと勉強より運動試験の方をどうにかした方が良いんじゃねぇ? ほら、腹筋鍛えるの、手伝ってやるよ」

 そう言って鹿沼は田本の腹を踏みつけた。グッと小さく呻いて腹を抱え込む田本。鹿沼はその様に更に口角を吊り上げる。

「これくらいで何だよ。俺たちはお前のために協力してやってんだよ? もっと腹に力入れろ、よっ!」

 再び腹を蹴られそうになって田本は身を硬くした。だがその甲斐なく、腹に一撃を喰らう。

 田本の咳き込む声を鉄は耳を塞ぎたい気持ちで聞いていた。

「ホラ、まだ休むな。もう一回だ!」

「……そこまで、しなくても」

「あ?」

 ふと気が付いた時には口に出てしまっていた。鉄は我に返ってはっと顔を上げる。鹿沼達が剣呑な表情で鉄を睨んでいた。


(俺、何言ってんだよっ!)


「江川ぁ。今の、お前?」

「ぇ、っと……」

「今、お前さぁ、『そこまでしなくても~』みたいなこと言わなかった?」

「いや、それは……」

 口ごもって狼狽える鉄に鹿沼が迫って来る。鉄は思わずジリリと後ずさる。

「言ったよな、江川ぁっ?」

「俺は、ただ……っ、ご、ごめん!」

 取り巻き達の止めようとする手を振り払って、鉄はもつれるように教室を出た。立ち去る際に教室のドアに肩がぶつかったが全く気にならなかった。


――そこまでしなくても……。


 何の考えなしに口から出てしまった。そして、逃げ出して来てしまった。


(最悪だ、最悪だ、最悪だっ!)


 鉄は激しく自を詰った。

 正義の味方ぶろうなんて思いは微塵もない。有るわけがない。そんなものより、何の変化もない、平和で退屈な日常の方が何倍も、何百倍も、何千倍も大切なのに。

 だが遅かった。すべては後の祭りだった。

 少年たちの暇つぶしの矛先は、翌日からあっけなく鉄へと向いた。それまで仲の良かった友人からも突然距離を取られ、瞬く間に鉄は孤立した。


 そう、ちょうど田本がそうだったように。


 鉄はそんな友人たちを責めることなどできなかった。自分と田本の立場が入れ替わっただけだ。いじめの対象が田本から友人へと変わっていたなら、鉄自身同じようにしないとは正直断言できなかった。

 だた、悲しかった。淋しかった。

 自分の身に起きてみて初めて分かる。それは紛うことない事実だった。

 中学三年になるまでの約一年間。鉄は毎日をひどく憂鬱に、そして時には恐れを抱いて過ごした。


――正義なんてものは存在しない。世の中はひどく理不尽で面倒事に満ち溢れている。まさに、行き場のない程に溢れている。


 物心着いたころから感じて来たことではあったが、鉄はこの時、真の意味でそう悟ったのだった。


(何で今更こんな夢見てんだよ……)


 鉄は腕の間で眉を顰めた。

 実のところ、鉄にはその理由は分かっていた。恐らく、カナンと共にミッションに参加するようになったからだ。

 正義。それは本来、平和に暮らしていく上で最も避けるべき高潔な虚構。

 そんなことは今までの経験から十二分にも分かっているはずなのに、形はどうあれ今自分は自ら進んで復讐と言う名の「正義」に関わっている。 その事実に、まだ見ぬ危険を察知して防衛本能がこんな夢を見せるのだろうか。

 鉄はなんとなく左肩を擦り、のっそりと体を起こした。

「っ、……カナン」

「はい」

 そう言ってにっこりと笑うと、いつの間にか前の席に座っていたカナンはパタンと手の中の本を閉じた。

 クラスメイトの姿はとっくになく、校庭から部活動に勤しむ声が聞こえてくる。

 鉄はどこか居心地悪く、頭を掻く。

「もしかしてずっと、そこに居たの? 起こしてくれればよかったのに」

「いえ。よく、眠っていたようだったので。最近ミッション続きでしたものね。きっと疲れが溜まっていたんですね」

「そうなのかな? 俺は普段からよく授業中とか居眠りして怒られてるからなぁ。ハハ」

「……鉄くん」

「え、なに?」

「あの、大丈夫ですか?」

 ついと顔を上げればカナンの瞳が鉄を捕えた。その瞳はどこまでも蒼く、澄んでいて、何もかも見透かされそうだった。この迷いも、怯えさえも。

「だ、大丈夫だよ! 元気いっぱいだって! 今昼寝もして、超パワー回復したし! そうだ、今日も教会に呼び出されてるよね。さ、行こう行こう」

「……はい」

 カバンを手に持って腰を上げた鉄をカナンは静かに見つめた。


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