聖女、推参
鉄は先ほどカナンに言われたポイントを目指してただひたすら走っていた。相変わらず後ろからは殺気じみた怒号と足音が迫りくる。
同じような光景が続く倉庫群。
あの曲がり角を曲がれば、曲がり切れば鉄の役目は終わる。二万円も手に入る。
鉄は痙攣しそうな両足を叱咤してラストスパートをかける。
あの先には聖女が、カナンが待っているはずだ。そして復讐とやらを実行する。
鉄のバイト。
それはそのトラブル体質を生かした囮としての役目だった。肉体労働どころの話ではなく、体、果ては命まで張る超危険任務。確かに破格の時給じゃなければ割に合わない。
視界に目的地付近に立つ街灯の光が差し込んでくる。
意気込んで滑るように角を曲がり切った鉄は、勢い余ってつんのめった。
「どぁっ! …………ぃってぇ」
完全に転ぶのは免れたが咄嗟に着いた手がジンジン痛む。膝を付いたまま手のひらを見て見れば、不幸中の幸いか擦りむけてはいたが血は出ていない。
やりきった。鉄は擦り傷に息を吹きかけながら達成感と安堵を噛み締める。
しかし、急に目の前が陰った。しかもゼーゼーと耳障りな音まで聞こえてくる。
(あれ……?)
ゆっくりと顔を上げた鉄の目の前。気が付けば汗を滴らせた、やたらと強面のお兄さんたちにぐるりと囲まれていた。
――カナンのポイントはもう一つ先の曲り角だったのだ。
何という失態。まさに絶体絶命の状況に鉄の顔からサァーッと血の気が引いてゆく。
一人遅れてお兄さんたちの間を割ってきたやや小太りの男は息も絶え絶えに言った。
「ゼェゼェ……鬼ごっこは、終わりだぁ。お前、っよくもこんだけ逃げ回ってくれたな。取引の現場を見られたからには、このまま見逃すわけには、いかないぜぇ」
「いやっ、俺何にも見てないです! あそこにいたのは本当にたまたまで、トランクに詰められてた一杯の白い粉なんて全然見てないです! ……っは!?」
(俺のアホォ~っ!)
鉄は自らのトラブル体質に加え、焦れば焦る程本音が口を出ると言うやっかいすぎる性格を呪った。
「やっぱり見てたのか。んじゃあますます見逃すわけにゃいかねぇ。ニイチャンには悪いが、東京湾のモズクになってもらうぞ」
「……テッさん、モズクじゃなくて藻屑なんじゃあ――」
「あ、アッタリめぇよ! オレはちゃあんとモクズって言ったぞ! モクズ!」
急に漫才を始めた男たちの隙を見て鉄はそろりと腰を上げようとした。
が、小太りの男が目の前にズイと一歩出てそれを阻む。
「おっと、逃げようったってそうはいかねぇ」
鉄は内心舌打ちをして男を見上げた。男は鉄の反抗的な眼差しを薄ら笑った。
「最近はなぁ、もう金貸しなんかじゃ食ってけねぇんだよ。貸した金にきっちり倍の利子を付けて返させても、カモには数がある。だけどよ、ヤクはいいぜぇ。なんせ一度やればやめられない。タダでお試しさせれば、そいつらは必ず帰って来る。それこそ、家を売って、体を売ってもなぁ」
男の顔が卑下た笑みへと歪む。
「ニイチャンは若いからバラして内臓は売るか。あぁ、心配すんな。余ったところはちゃんと海のモズクにしてやるからよ」
――罪人。
結木とカナンの言った言葉が鉄の脳裏に過る。この男に相応しい言葉だ。
鉄は奥歯を噛んで男を睨みつけた。
藻屑……と先ほどの男がまた呟きに似た指摘をするが、今回に限っては小太りの男はそれを無視した。
「じゃ、一緒に来てもらおうか。オイ」
小太りの男に促されて周りを囲んでいた男二人が鉄の腕を掴む。
「離結木!」
「暴れるな、ガキが」
身を捩って抵抗する鉄を男たちは押さえつけていたが、それでも抵抗をやめない鉄に一人が懐からポケットナイフを取り出した。パチンと音をたててブレードが現れる。
街灯の淡い光さえも反射するナイフ。その鋭利さは一目瞭然だった。
それを見た鉄は思わず息を詰める。
「こんなんでも結構切れるんだぜ。もうちょっと自分の足で歩きたかったら大人しくしろ」
「くっ」
悔しそうに呻いた鉄を見て男は満足そうに口元を歪めた。
「そうだ、最初からそうしとけばいいんだよ。オラ、歩け」
促されるまま一歩踏み出したその時、
「――待ちなさい」
ひどく場違いな清浄な声が響いた。
その場にいたものが一斉に振り返る。
僅かに翻る白い制服。腰まである長い黒髪。表情の映らない冷たい碧眼。
カナンだった。




