いろんな意味でドキッとします
「ハッ、ハッ……はぁーっ」
夜の埠頭をやっとの思いでこの倉庫裏まで休みなしで走って来たが、さすがに息が切れて膝に手をついて息を整える。脇腹がズキズキ痛む。
マラソンは遠慮したいが走ること自体は嫌いじゃない。体育も好きな方だ。
だがこの命がけの追いかけっこは、いくらなんでも身体的にも、精神的にもごくごく普通の男子高校生・江川鉄にはきつ過ぎる。
「あ、いたぞ! コラ待て、ガキィ!」
「やべっ!」
怒声が聞こえて鉄は弾かれるように再び走り出した。バタバタと追いかけてくる複数は下らない足音。
(なんで俺ばっかりこんな目にぃー!)
行き場のない不満を声に出すことも出来ずに走り続ける鉄の目には、僅かに涙が滲んでいた。
こんな目に合うことになった発端は、もちろんつい昨夜脅迫され――もとい同意の上に始めた「破格のバイト」のせいであった。
授業を終えた鉄は計画通り一人カバンを抱えて、夜逃げするかのように人目を忍んで学校を後にした。
はずだった。
「江川鉄君」
耳に響く凛としたステキな声。その声で鉄をフルネームで呼ぶものは一人しかいない。
ビクリと肩を揺らした鉄は、はぁと息を吐いて振り返った。
「……マジェッツさん」
「はい」
カナンは首をわずかに傾げて微笑んだ。
夜逃げに失敗した債務者は、やはりこんな絶望を覚えるのだろうか。聖女が眩しいほどの笑顔を他でもない自分に向けていると言うのに、鉄の気分は最悪だった。
「じゃあ、行きましょうか」
「……はぃ」
どこへ、なんて愚問は必要なかった。首根っこを掴まれた猫よろしく、鉄はすごすごとカンナの後ろを半歩下がって続いた。それでも人目はひしひしと感じたのだが……。
聖教会へ向かうと思っていた鉄だったが、予想に反して電車に揺られて着いた場所は恵比寿埠頭だった。
都内最大の埠頭。日本中、さらには世界中から船に乗せられた物資が集まり、関東に流れて行く中継地にして重大な港だ。
空には月さえも上ろうとしている薄暗い埠頭には既に人の姿はない。
「あのー、なんで俺たちこんなところに?」
係船柱に腰を下ろしたまま鉄は隣で海を眺めるカナンに訊ねた。もうかれこれ三十分ほど何をするでもなくこうしている。
「もちろんミッションのためです。江川鉄君」
「ミッションですか、ってあの、そろそろそれ止めてもらえないですか?」
「なんでしょう?」
鉄を見つめて小首を傾げるカナン。鉄の胸に先日感じた動悸がまた蘇る。
「ぅ……、その江川鉄君、ってやつ」
「江川鉄君……。何か問題でもありますか?」
「問題って言うか、なんて言うかフルネームで毎回呼ばれるのはちょっと……呼ばれ慣れないんで」
呼ばれる度になぜかドキッとする。特にカナンに呼ばれるといろんな意味でドキッとする。
「そうなんですか。……では、なんとお呼びしましょう?」
「いや、何でも良いんですけどね。フルネームじゃなければ」
ハハハと乾いた笑い漏らした鉄を見てカナンは逡巡する。
「じゃあ……鉄、くん」
――鉄、くん。
カナンの声がこだまのように鉄の頭の中で反響されては繰り返される。先ほどとは比べ物にならない程に上がる心拍数。
「くはっ」
鉄は思わず胸に手を当てて前のめりになる。
(また動悸がっ、心筋梗塞……!?)
「大丈夫ですか?」
「ダイジョウブ、です……」
心配そうに顔を覗き込むカナンだが、鉄はそれを避けるように急いで立ち上がった。なんとなく今、顔を見られるのは憚られたのだ。
すると、カナンはほっとしたように微笑み、腕時計に目を落とす。
「そろそろ時間ですね。行きましょう、鉄くん」
また心臓が飛び跳ねるのを感じながら鉄は頷いた。
そこまでは良かった。ごくごく普通の高校生らしく、美女と海を見ながら甘酸っぱい雰囲気に浸っていた。むしろこのバイトを引き受けてよかったかもしれないなんて一瞬でも思ってしまった。
だが何を隠そう彼は江川鉄。そう簡単に世界が彼に安寧を許すはずもない。




